麻雀の駆け引きとか読み合いの話

オバカミーコという麻雀漫画で「三色とか一通とか考えるな。いいからテンパイしたらリーチしろ」というアドバイスを貰ったミーコという主人公は戦績が以前よりも良くなるシーンがある。

これはまぁ実際あることで、麻雀というと「手牌を何かしら揃えて役を狙うゲームだ」と考えている人は少なくない。ポーカーや花札のように揃えてから勝負しなければならないと思い込んでいる人にありがちだ。

 

中国式の麻雀ではそれが事実なのだが、日本式の麻雀は違うのだ。

日本式の麻雀はリーチすればいいのである。手役などオマケにすぎない。形を作ってリーチすれば正直あとはどうでもいいのである。サンマでは北ドラがあるために尚更言われるが「リーチしてドラが乗れば打点なぞいくらでもついてくる」。

 

そんな運任せなことがあるかと思うだろうが、麻雀なんて半分以上は運任せなのだから今更すぎる。「リーチ一発ツモ裏ドラ3でハネマン」をギャグだと思って笑っているうちは麻雀は強くならない。

とはいえ、何だかんだきちんと打つなら条件確認は必要になってくる。

 

・ドラがどこにあるか

リーチ麻雀において手役が重視されない理由はドラにある。ドラ牌があれば翻(ハン)数は増えていく。そして手役を作るよりもドラを使ったほうが簡単なのだ。

そしてネット麻雀であれば大抵は「赤ドラ」も入っている。リーチピンフドラ赤といった手は何も考えなくても形だけ揃えば打点になる。

時間をかけて役役ホンイツ一気通貫を狙っているよりも簡単だ。なにより残酷なことは一生懸命作った手役と重ねただけのドラで打点は一緒なのだ。

リーチドラ3とピンフタンヤオ三色はどちらも同じ打点だ。ゲームとしての仕組みを理解すれば「一生懸命作った手役なのに」なんて人間の感情はゲーム側には関係ないのである。

 

サンマでは特に顕著だがドラがどこにあるかで自分の手の価値が大きく決まってくる。ドラ赤北ドラ無しの手であれば押す価値はほぼ無い。面前の清一色クラスでなければ、ほぼ相手の打点に負ける。サンマでドラ無しのタンピンなんてやっても、たかが知れいるのだ。

ヨンマでもこれはほぼ変わらない。タンピンだけでリーチに行くにはもう一押しほしいところである。「自分が親である」「カンされて裏ドラが増えている」「相手を抑え込みたい」など。

 

必然的にドラのない手は、ツモあがりのみ、タンヤオのみ、ピンフのみ、一盃口のみ、といったノミ手のかわし手になりやすい。

自分の手が安いということは、他の誰かの手は高くなっている可能性があるので、それを警戒してオリられるようにリーチせずに様子を見つつ、アガれるならアガって相手の高い手を潰しておこうという戦略である。

 

・読み合いや駆け引きはビギナー相手では無意味なことが多い

ビギナーを相手に打牌で手牌読みをしたり、相手の打点を読むことは本当に難しい。というか無理である。そしてこれはプロや上手い人ほど翻弄される。

そもそも麻雀において読みそのものが「そうかも」程度にしかならず、上級者同士であっても「絶対にない」というシチュエーションはほとんどない。

「この河はホンイツか・・・」と思わせて手の中からまったく違う牌が出てくる。「あれでホンイツじゃないの???」というのはビギナー相手にするとあるあるである。

第一打に赤5pを切っているのに、中盤で手の中から6pが出てきたりする。確かにたまに奇妙なツモでそうなってしまうことはあるが、変な打牌を繰り返す相手はこれが茶飯事である。

 

そしてここで「こいつ下手だな」と舐められないのが麻雀なのである。「この人はそんなに注意しなくていいか」と気にせずに打っていたら急にドラ3のダマ12000をアガったりしてくるのである。しょせん運ゲーだなと思わせてくれる。

そう、しょせん運ゲーなのである。だからこそ油断ならないし、プロでも素人に簡単にやられてしまうゲームなのだ。

 

こんな調子で読み合いや駆け引きよりも運のほうが圧倒的な決定力を持っている麻雀。マンガ「天牌」に忘れられない台詞がある。「この兄ちゃんの麻雀は運頼りの”たまたま麻雀”だ。そんなのじゃ通用しない」といった旨である。

フィクションで語られるということは、これはつまりハッタリであり嘘なのだなと思わされる(マンガではそれが重要なのだ)。台詞の裏は「運で麻雀を勝っているうちはまだまだ甘い」といったことだろう。だが悲しいかな、現実の麻雀は運ゲーなのである。

 

読み合いや駆け引きの話に戻ろう。

実際に上級者の卓であれば高度な駆け引きや牌での会話は存在する。それはプレイする上で一種のカタルシスにもなり得る。どのジャンルでも同じだが、会話などではなく、プレーを通したコミュケーションや通じ合いを感じたときは嬉しいものである。

麻雀のアシストや見るからに逆転のために無理して手を作っているだろう河と押し、そういった呼吸を感じ取れるときは楽しいものだ。

 

だが、その一方で何も楽しくない、そこに参加すらさせてもらえないこともある。別に何もない手でベタオリだけしている、見てるだけしかできず、最後はツモられて4着落ち。こんなこともあるのが麻雀だ。

それが結局のところ運ゲーたる所以なのだ。確かに読み合いや駆け引きが存在する場面はある。だが、それも運次第でしかないのだ。

 

相手と読み合いや駆け引きの末に勝ったとしても、「勝てた」という結果も「読み通りだった」という経過も「駆け引きできた」という出発点でさえも「運が良かったから」こそなのである。何をするにも麻雀においては、ここがスタート地点であり、終着点なのだ。これを否定することはできない。

 

麻雀において上記を否定するのであれば、自分で選んで配牌を作れて、自分で選んで牌をツモれて、自分で状況を選んで戦える、くらいでなければ実力とは言えないだろう。麻雀においてはどれもランダム要素が絡んで自分では何も決められないのに等しい。

始まりから終わりまで、一連の流れの中で何が起きるか、それを待つしかないゲーム性なのである。

だからこそ「たまたま麻雀」なんて批判の仕方は現実ならできないだろう。そもそも麻雀そのものが「たまたま」の塊なのだ。