麻雀には逆らえぬ話

基本的に麻雀というゲームは人間側が流れを作ったり、作戦を用いたりすることはできないゲームである。

野球などであれば自分たちで戦術を組んで攻守を行うが、麻雀において展開はランダムに任せるしかない。麻雀における「自分で選択している」は他の競技と比較すれば「選択しているうちに入らない程度」でしかない。

 

麻雀で守備をしようと決めても現物が無い場合もある。筋や手牌読みで安全そうなところを切ってもロンされる。何だったら現物を切っても他家にロンされることもある。

攻めようと思っても配牌やツモがこないこともあるし、リーチしようがダマだろうがアガり牌がこないこともある。

麻雀とは基本的に、麻雀が「主」であり、プレイヤーが「従」なのだ。

 

自摸と配牌によって判断が決められ、人間はそれに従うだけ。それが本質であってプレイヤーが何か選択しているというのは錯覚でしかない。人間が選択していると感じられるのは、ややもすると強引なくらい決め打ちをして「もうこれでないと条件を作って捲れない」という手作りのときくらいだろう。

56sのリャンメンを払い、1mを残してまで、123の三色を作ろうなどと普通ならば思えない。手牌にリャンメンが与えられたのなら、素直に56sを活かしてアガりに向かったほうが賢明だ。それに逆らってまでやる必要は普通なら無い。

 

この普通の考え方が麻雀を「主」とし、逆らわない「従」の打牌。

従わない打牌は「逆」とでも言おうか。まぁ、呼び方は何でもいい。

 

麻雀はかなり枷(かせ)が強いゲームだ。「相手にこうされたら、逆らってはならない」ということがゲームの大半を占める。圧倒的に耐えたり、他者に道を譲ることのほうが多いゲームである。

そして相手に道を譲ったままゲームが終了して、自分の出番が全く無いことも しばしばある。このあたりが強引に実力で流れを変えられるゲームや競技をしてきたプレイヤーからすると歯がゆい部分となる。

 

スポーツや格闘技でも耐えることはあるが、時には自分で奮起して強引に相手を押し返すこともできる。しかし、麻雀は何もかもが運次第であるがゆえに、それに従うしかない。逆らったところで何ができるわけでもない。配牌とツモはどうやっても変えられないのだ。場の状況も変えようがない。手の出しようがない。

ここが非常に受け身で、頑張りようがないゲーム性ではある。

 

麻雀はプレイヤーがどれだけ必死になったところで、プレイヤー側に何の決定権もないのである。順番にツモった牌の中で限られたことをやるしかない。まさに麻雀の側が「主」であり、人間はそれに従うしかないのである。

麻雀に対して随順する心構えがない人間には向かない遊戯となるだろう。

 

漫画「刃牙」の中で愚地独歩という空手家が、ドリアンという死刑囚に告げる。

「武に全てを捧げるのではなく、武が己に全てを捧げたとカン違いしている おまえさんにゃ とうていできねェ芸当だ」

独歩において武とは、人間側が全てを捧げるのが当然という哲学なのだ。対してドリアンは己が主であり、武とはその一部でしかない。

 

独歩において自分は武に従う存在であり、ドリアンにとって武は自分に従わせるもの。

この二人の戦い、物語の中でどうなったかは読んでみてほしいところだが。

麻雀においては明確に愚地独歩のスタイルが合うだろうと私は考えている。

 

自分のために麻雀が存在しているのではなく、麻雀のために自分が存在している。そのくらいの覚悟が必要になるのかもしれない。何事も境地に至れば、この領域に達するのかもしれない。

しかし、私は未熟ゆえ麻雀が主となることが耐えられない。己のわがままを貫こうとしてしまう。天衣無縫、やりたいようにやらせてもらう。だから麻雀に向いていない。

資質や素質というものは変えようがないと考えさせられる。