才能が無くても、の話

麻雀はカジュアルなゲームであるからこそ、他の競技ほど天賦の才が必要になるということもない。

堀慎吾が鈴木たろうに憧れてプロ入りし、「こんなすごい人がいるのかと思ったら二年くらいで追いついちゃった…w」と冗談めいて語っていた。

初中級者向けの麻雀講座でも「これを覚えろ!」「この決まりを守れ!」というだけで、ある程度以上の実力にまではなれるのが麻雀。

 

逆に言えば「何切る」「牌効率」「ベタオリ」「点数計算」こういった普遍的な基礎部分、あるいは「暗記部分」と言い換えてもいい。そこのところを疎かにしていると、いつまで経ってもレベルアップできない。そういった厳しさもある。

「誰でもできる」が、「誰でもできるのにやらない」のでは「強くなれない」ことを言い訳できない。

勝又健志をして「努力する人には教えられるけど、やらない人には教えても仕方がない」と言わしめるほど。清一色の待ちをすべて暗記しているとする勝又に言われてはぐうの根も出ない。

 

確かに麻雀自体は不確定要素の多いゲームである。

しかし、麻雀において「覚えるべき基礎」というのは「暗記で済む」のは間違いない。

バスケットでシュートフォームを練習をしたり、サッカーで正確なパスやトラップをするというのは繰り返しの練習で試行錯誤が必要になる。

だが麻雀の知識のほとんどは暗記で済むのだ。繰り返し試行錯誤するのは押し引きやバランスの保ち方になるだろう。そこは長い目で見てもいいし、時代によって流行り廃りも変化するので固定されることはない。

 

「麻雀が強くなるのに才能は必要ない」「麻雀に天才はいない」という言があるが、まさにこれは他の競技を見ればよくわかる。

麻雀は他の競技ほどごく一部の選ばれた人間以外がトップに立てないゲームではない。運による偏りがあるにしても、カジュアルさが裾野の広さを持っているのだ。

ただ、将棋や囲碁といった実力有利のゲームにしても、情報収集と研究を日頃から煮詰めている者が優位になれるのは間違いない。麻雀においてもそこは変わらない部分である。

 

では、現代においてそれを実行しているプレイヤーがどれだけいるのかという話。

麻雀はプロであっても現在は将棋や囲碁奨励会のようなものはない。幼い頃から才能を賭けて生涯を捧げるほどの環境は整っていない。

ほとんどが大人になってから他に仕事を持ちながら、掛け持ちでプロ活動を行っている。となると日夜麻雀の研究などに専念するというのは難しい話だ。

 

「プロなんだからそんなことはないだろう」と思う方もいるだろうが、どの業種であってもプロの中でも様々である。

超一流もいれば、三流だが親しみやすい人もいる。二流でほどほどだが、仕事もリーズナブルで頼みやすいなどなど。住みわけがあって成り立っている。

楽家であれ、野球の選手であれ、誰もが超一流で、それ以外は存在していないわけではない。

 

「自分は世界一のベーシストではないが仕事はある。それは何故か。世界一のベーシストが演奏しているとき、他の会場では別のベーシストを使うしかないからだ」

超一流が一人いれば全てを回せるわけでもない。

そういうわけでプロの中にも幅がある。プロとして活動できているがゆえに「一切の淀みなく、すべてを修める」ということをしなくなってしまう人がいるのも世の常だ。誰もが超一流を目指すわけでもない。それが間違いとは言わない。

 

だからこそ、「努力できるのも才能」といった言葉が生まれるのだ。

プロとして活動し、生活も成り立っている状態で、「さらに上を」「さらに完璧を」と目指すモチベーションを持ち続けられる人間は少ない。

暴君とされる人間も「野心がある」とすれば、それは平穏な生活を望む者には無い才能なのかもしれない。

 

麻雀で覚えられることはまだあるのに、得手不得手や日々の繁忙に流されて手を付けなくなっているのではないか。私も耳が痛い。

だが、やはり、それができるのも才能というか。「そこに納まるかどうか」が人生において重要であるように思う。

私はのんびりとした性格なのでのらりくらりとしてしまうのだが、とてつもなく人生に焦りをもって生きている同業種の人間もいる。そういった人間のほうが日々を必死に生きているのは間違いない。

 

平穏な日々に美味しい食事と健康。

嗚呼・・・、私の野心など、無いに等しい。