流れ信者も確率信者もの話

いわゆるオカルト扱いされる「流れ」といった派閥と、統計などを基に確率で考える理論的な派閥。

 

対照的に語れる両者だがその実、どちらも同じようなものでしかないのではないか? と思ってしまったのだ。

流れ派が「この試合の流れは決まっちゃいましたね」という5万点差のゲームと、理論派の「5万点差はダブル役満か、役満の直撃ですか」というゲーム。

何か違いがあるのかと。

 

やはり麻雀というものは人類がどうやっても攻略できないランダム性というものを相手にしていて、その結果についてはオカルトだろうと理論だろうとついていけないのだ。

理論派はダブル役満で逆転の可能性が0ではないので、それを追うことを辞めはしないだろう。あるいは「勝てる確率が限りなく0なので終わり」と考えるかもしれない。

オカルト派であれば「このゲームはもうやっても無駄だ」と言い出すかもしれないが、諦めない人間なら「このあと逆転の手が入るのが強者ってモンだ」と嘯くかもしれない。

 

諦めないという精神性、あるいは見切りの付け方については、考え方に違いはあってもそれ対する姿勢はどちらも同じだ。

その他の細かいオカルトはさておき、強者が圧倒的だとするオカルト、強者が圧倒的だとする数字、どちらにせよ「圧倒的に勝った人間がいる」という結果についてきただけの話に過ぎない。

要は後付けなのだ。予言めいたオカルトでもなければ、いやそうだったとしても確率的に語ったときにさえ「逆転の可能性はまだありますね」というのは未来の話として無いわけではない。

そして結果がどうなるか、完全に人間には予測できない。

 

だからこそ結果で語るしかないし、どうとでも言えてしまう。

そうなると実際のところ「オカルトでも理論でもどっちでもいいじゃないか」という話になってしまう。

テキトーに言ったところで当たってしまうこともあるし、理論的に進めたところで当たるわけでもない。

ハッタリが通用してしまう。

 

とはいえ現代雀士であれば「やっぱり南4になると強い人には良い手牌が入るね」なんて言われたら「オカルト乙」で終わりなのだが、実際に入ってしまえば何も間違ったことなど言っていないことになってしまうのだ。

「そんなのオカルトに決まってんだろ・・・」と内心では思っていてもヤキモキする。

得意げにデタラメばっかり言われてもそれが的中してしまえば、何をどう理論的に語ったところで無駄。「こっち(オカルト)の人のほうが言ってること当たってるじゃん」で終わり。

 

結果で語ると麻雀は何とでも言えてしまう。

それは理論派の立場であっても同じなのかもしれないが・・・。

確率通りの展開になったとして、それも結局はたまたまでしかない話なのだ。