押し引きの評価が最終的に高くなる話

例えば「小説を書くこと」が、言葉や文章を扱う上で高等な総合技術だとして、単語や文法の用い方などは基礎でしかない。

逆に単語や文法にいかに詳しくても、小説を書くという総合的な技術に昇華できなければ宝の持ち腐れ(小説を書くという目標に対して)になってしまうだろう。

麻雀における牌効率や何切る、あるいは守備の知識といったことは最終的に卓上の「点数のやりとり」に関わる要素のひとつでしかなくなる。

 

牌効率が完璧であれば必ず相手よりも先に聴牌してアガれるわけでもないし、守備が完璧なら絶対に失点せずに4着は引かないわけでもない。

どちらも完璧であってとしても負けるのが麻雀で、どちらも不完全だったとしても勝てるのが麻雀だ。

勝率を上げるうえで上級者が微差の研究に取り組むことは間違いではない。

 

しかし、麻雀が最終的に目的とするのは「点数のやりとり」であって、華麗な打ち回しであるとか、鉄壁の守備だとか、そういったものではないのだ。

それらは点数のやりとりをするうえでの駆け引きの要素でしかない。目的ではなく、手段でしかないのだ。

とはいえ、手段の研究に勤しむ者がいても、それはおかしなことではない。それら研究者が出した結果をもとに、実践に赴くのもまた様々な分野において進歩の鍵となる部分だ。

 

だがプレイヤーがそこに傾倒してしまうのは本末転倒といえる。

卓上のプレイヤーであれば「その場限りの平面的な何切る」よりも、相手との点数のやり取りを重視しなければならない。

そもそも「何切る」をやりたいのであれば4人で卓に付く必要すらない。ただひたすら自摸を繰り返して、研究に値する牌姿がきたら保存しておけばいいだけだ。(というかランダムジェネレーターでカチカチしたほうが早いな・・・)

 

現代麻雀において未だ研究の多い「何切る」であるが、おそらくあと数年のうちに打ち止めになると思う。何万パターンあろうと、「形次第の何切る」はすでに組み合わせが出きっているだろう。

となると、「あ、この形のときはね。コレ切るといいよ」が即答されるようになる。今でも大半はそうだろう。それでも絶対の解答が無いように思うのは「どっちでもいい」が麻雀にはあるからだ。

それを永遠のテーマのように議論する。「30%と30%」であれば正直どっちを選んでも同じことだ。だがおそらく議論に決着はつかないだろう。

 

それはもちろん平面的な何切るでないことも多分にある。場況を含めて「これ切って正解だったのかな・・・」という部分に寄っていく。つまり結果「押し引き」に到達しているのだ。

麻雀が卓上で4人で戦う競技なのだとしたら、どうやって戦うかは手段でしかない。そして技術とは「使いたいから使う」ものではない。「使うべき時に使う」ものなのだ。

ときに人間は目的と手段が逆になることがある。卓上で点数を競って勝つのが目的であるのに、自分の知識や技術を用いたいがために目的を見誤る。

 

魅力的な手牌に翻弄される展開に似ている。

「こんなのオリちゃもったないよ~」「役満だしいっちゃえー!」とやらなくていいことをやって逆転される。

まぁ、それも麻雀ではある。

 

麻雀強者が最終的に押し引きを評価するようになるのは、平面的な牌効率や守備といったことは基礎中の基礎であり、それを含めたうえで「この場況でどうなんだい?」ということが細分化されていくからだろう。

これもここ10年ほどの現代麻雀に限っての話だ。

今後は場況を含めた押し引きのケースも一見しただけで「あ、これはね。打たないほうが基本的には得」と即答されるようになっていくだろう。

 

若手の雀士からすれば「何を今更こんな話をしているのだろう」と思うかもしれない。

これ以前がどうだったのかといえば、麻雀界の重鎮とされる人間たちが大真面目に「流れは~」とかオカルトを口にしていたのだ。それを「なにバカなこと言ってんだ」となってきたのが、ようやくここ10数年のことなのである。

もちろん以前から確率をもとにした雀士は多かっただろうが、麻雀そのものがオカルトや接待やイカサマやハッタリに支配されていたのだ。

 

確率通りに打っていてもイカサマされたら収束しない。接待されたら確率が偏っておかしなことになる。オカルトをもとに打つ人が同卓すれば数字なんてどこか飛んで行ってしまう。

ゲームとして成り立っていない。

まぁ、いまでもそういった面は色濃く残っているだろう。

 

牌効率や守備の基本を学んで、場況を含めた押し引きを学んでいく。確率に挑戦する。オカルトを眉唾ものと分別できる。

それがようやく整ってきた。そして進歩している。