抽選率の低いゲーム

麻雀というゲームは常に1対3の戦いと言っても過言ではない。ゆえに自分が活躍できる可能性は常に25%、さらに流局といった無効な局を含めるとゲームへの参加率自体が20%程度にまで落ちる。

これまでも何度か記事にしている内容だが、麻雀というゲームはプレイへの関与自体が稀なゲームといえる。

大体は別の誰かが場を支配して、自分はベタオリするだけ。勝負にすらならない局面がほとんどだ。

 

他のゲームは参加自体は常にできているのである。ある意味で常にゲームに関わることで責任が生じるともいえる。

FPSのチーム戦で自分が手を抜けば自分のチームの勝利は遠のくし、格闘ゲームで手を抜けば相手に勝ちを譲るだけになる。

そういった価値観で麻雀というゲームに関わると何ともクソゲーだとする意見はよく解る。

 

ウメハラはこれを「100戦やっても実力が示せないゲーム」と表した。それもあるが、そもそも「ゲームに参加できるか否か」の段階で毎回ランダムなのだ。

だから「実力が関わってこない大半の局」が消化されるだけの展開になる。

ゲームに関わっていれば勝敗はともかく(これも問題点として後述)、内容において実力を示す機会は多く与えられるはずなのだ。

だが麻雀にはそれすらもないことが多い。

 

麻雀は結果よりも内容で評価すべき遊戯だが、それにしても座っているだけでツモられ続けてマイナスの箱下ラスだったとして、それが何か評価点になるのかという。

この時点で実力とは無関係な部分が発生しているのだ。

さらに結果(勝敗)でも実力をハッキリとは証明できない。

 

麻雀が競技として成り立つのは到底無理だろうと想像がつく。

無論、現状においてもエンタメとして成り立っている面はある。だが「競技」と名をつけるのは難しいと何度も思ってしまう。

 

麻雀をつまらないゲームだと感じる面はどの部分だろうか。すべてがつまらないとは言わずとも、やはり呆れてしまうプレイヤーが多いのも事実だ。

そこはやはりウメハラが指摘する部分にあると思う。100戦や200戦やったところで結果は出ないし、その中の大部分が「ゲームに参加していない」というストレスがある。

麻雀を楽しみたいのに参加すらさせてもらえないのが大半のゲーム内容なのだ。

 

もちろんアガるばかりが麻雀ではないからオリたり回したりも芸のうちだが、上級卓になるほど周りが先制を取って後手に回った側はオリるだけの展開になりがちである。

中級以下だと手順に無駄があったりして自分がアガりに向かうチャンスも増えるが、上級卓になるほど、そのチャンスは減っていく。

どんどんゲームに参加できずに堪えるだけの内容になっていくのだ。

 

「10局に一回程度の参加率」だとしたらゲームとして楽しめるプレイヤーの数は大幅に減るだろう。

だが実際に上級卓にいくとそんなモンである。

オリてオリて、チャンス手はかわし手で蹴られて即終了。そんな展開を延々と繰り返して、ようやく稀に誰にも邪魔されず、あるいは邪魔されても押し切ってアガりを取れる。

そんな展開はランク帯が上がるにつれて数少なくなっていく一方なのだ。

 

「そんなに文句があるなら麻雀をやるな」「じゃあずっとゼンツ麻雀だけやっていろ」というのも正しい指摘で、そしてそれに逆らったり抗う必要もない。

ハッキリ言って、この参加率の低い受動的で運任せなゲームに付き合っていられないのなら、麻雀をやめるか、自分が楽しめる打ち方にすればいいだけなのだ。

「20局連続でオリているだけのゲームなんてやってられないよ!」という人はもう最終的に麻雀の上級卓に向いていないといえる。やめたほうがいい。

 

それに耐えられる人間だけが打ち続けられるゲームなのだ。

「なんでそんなゲームやってんの?」と疑問に思う人もいるだろう。俺もなんでこんなクソゲーをずっとやってしまうのか。

やっちゃうんだよ・・・。

(なんの説得力もねーじゃねーか)

 

成功体験の話

前回の山読みの話。よく実況解説でも「七対子が好きか嫌いか」というのが話題にあがります。つい先日のMリーグでも話題になっていましたが、これとセットで語られるのが「山読み」の話。

七対子が得意な土田プロなどは暗刻手も得意としていて、四暗刻狙いの何切る(場況からの山読み)も見事的中させるなどしています。

七対子が得意だとするプロは山読みに自信のある人が多いようです。

 

私も七対子に苦手意識はないですし、山読みも不得手という認識はありません。

相手の河や打牌を見て「ここの周りは無さそうだな…」と山に残っていそうな牌を選択していきます。もちろん七対子の場合は防御も兼ねて安全牌を優先して残すこともありますし、打点を見て赤やドラを残したりもします。

七対子を好きじゃないという人は読み以前に、そもそも手役として狙うのが狭すぎて好きじゃないということもあります。

 

自分は意地の悪い面もありますので単騎待ちの「そんな牌で当たるのかよ…」という罠を張るのも嫌いではありません。ゆえに七対子もハマり役ではあります。

加えてオーラスで跳満が必要とあらば向かいがちなリーヅモウラウラの七対子狙い。何だかんだ出番は多いのが実情です。

これを苦手だからと避けているわけにもいかないでしょう。

 

しかし、実際には好き嫌いが分かれるわけです。

これには成功体験あるいは逆に失敗体験が大きく起因します。

AさんBさんCさんの三人が麻雀を習い始めて、全員が七対子をやったとします。AさんCさんは成功し、Bさんは全然アガれなかったとします。

 

するとBさんは「七対子なんて狙ってもしょうがないよ」「全然アガれない手役」と言うでしょう。そして七対子に対して消極的になります。

単騎待ちなんかにするよりも広いリャンメンに受けたほうがいいだろうと良形聴牌に傾倒していきます。

逆に成功したAさんCさんは「七対子の単騎待ちは面白いぞ」と積極的に狙うようになるかもしれません。そして「より揃えやすいように山読み・手牌読みを意識しよう!」とモチベーションも高まります。

 

山読みをした結果、Aさんは読みが的中して、Cさんは読みが当たらない展開だったとします。

Aさんは山読みと七対子は有効だとして、Cさんは「しょーもな」となるかもしれません。

誰が正解かはありません。それが麻雀です。長く打ち続ければAさんもやがて失敗が積み重なって「昔は七対子よくアガれたのになぁ…」なんて時期が来るかもしれません。

 

Aさんは七対子を多くアガって順子手を逃しやすい、Bさんは七対子を逃して順子をアガりやすい。

これは麻雀を長く続けるうえで、どちらかは引かざるを得ないものです。両方の美味しいところだけを頂くというわけにはいきません。それを時々で選べるのであれば神です。

 

他のゲームにしても人間というものは観察してみると面白いものです。

どんなに有効な手段であっても自分が失敗すると駄目なものとみなします。

よく配信なんかでもコメントで「この方法が良いですよ!」なんてアドバイスが飛んで、ゲーム実況者が「へ~、そうなんだ」とやってはみるものの上手くいかなった。

そうなると「私はやっぱりいいや~」と効率が悪くとも他の手段を取ることを選びます。(その効率が微差だったりプレイ環境に左右される範囲であれば問題ないことも…)

 

なんだったらゲーム側で用意した正規ルートさえ拒むプレイヤーもいます。

ダークソウルのようなバトルアクションで特定の用意された武器でのみダメージが通る戦闘でも、「なんだよこの武器!使えねえじゃん!よっわ!!」となると、二度とその武器を使いません。

メチャクチャ効率が悪くても通常武器で攻撃し続けて倒したりします。(まぁここまでくると意地というか)

 

FPSでも強い武器を避けるプレイヤーはいます。格闘ゲームでも強いキャラを避けたり。

それは自身のこだわりで「みんなと同じの使っても面白くないから」であるとか「実際に使ったけど合わなかったから」というのであれば判ります、

しかし、そこまでやりこんで結論を出す人は少ないです。

 

何故ならば大半の人はそこまでゲームをやり込みません。

何百回もプレイして検証した結果、「この武器は合わないな」というよりも。

1~2回プレイして「上手くいかなかったのでやめ」というほうが一般的だと言えるでしょう。

 

麻雀においてもそうですが「100半荘打って収支を出す」とか、「1000半荘で平らになる」なんてことは、一般的にやる人はいません。

他のゲームでもそこまでやり込んでいる人は相当なマニアです。

普通は1~2時間ゲームをやるだけでも、その時間を作るだけでも大変だったりします。それだったら他のことをしたい人もいるでしょうし、何もせずに休みたい人もいるでしょう。

 

以前の麻雀講座系Youtuberの配信でも「年50半荘しか打たない人から見れば、1000半荘で平均出してって言われても、それ何年分だよって話でw」と言われていましたが、その通りです。

他のゲームにしても最初に成功するか失敗するかだけで判断する人は少なくないと思います。

それを数限りなく検証して「最初は失敗続きでダメかと思ったけど、続けていたら上手くいくことが多かったので有効な手段だった」なんて検証結果を出せるのは一部の研究者だけです。その手順というか、習慣が身についている人間は。

 

生物や化学の実験にしても、「最初の1~2回で失敗したから無効」とはいかないのが常識です。

しかし、その思考は一般的とはいえない。

麻雀を初心者に教えるときも、最初に成功するか失敗するか。ここは大きな壁になると思います。

 

入り口にするだけなら成功してくれれば簡単なんですが・・・。

長く続けるのであれば成功体験が足を引っ張ることもあります。「成功体験は良いもの」とは限らないのも難しいところです。

 

 

 

山読み手牌読みの話

上級卓になると平面的な何切るやベタオリでは差がつかなくなってくるため、読みによる差が開いていくとされます。

実際にそれはあると思いますが、そもそも読み自体が不確かなものに過ぎないので結局は打点も含めて押し引きの材料にしかなりません。

加えて結局は下振れか上振れかの話にもなるので、「山読みが当たって良いほうに傾いた」こともあれば、「山読みが上手くいかなかったのか裏目を引き続けた」とか「山読みは合っていたけど自分のところに狙った牌が来なかった」なんてこともあるのが普通です。

 

つまり読みも麻雀においては出来たところで決定打にはなりえず、他の要素と同じく「ちょっと差がつくかもしれない」という要素に留まります。

まぁ麻雀自体がランダム性が圧倒的な支配率を占めていて、人間がそこに対してどうこう出来る要素のほうが少ないので当然といえば当然です。

ゆえに読みも過信しすぎると打牌ブレの原因になります。

 

一時期の自分がそうでした。打牌を読み前提で選択してそれが悉く上手くいった時期があったのです。手牌や山を読んで、浮いた牌を残してくっ付けて、相手の不要牌を狙ってリーチをしたり・・・。

「この打ち方は良いな」とそのスタイルを続けていましたが、ある日から急に勝てなくなります。

「結局ただのラッキーだったのか?」と実力だったのか運が良かっただけなのか疑心暗鬼でスランプに陥りました。

 

さらに打数を重ねた今なら「不要とは言わないけれど頼り切っても勝てるわけじゃない」という当たり前の答えに行き着いています。

一番よくなかったのはスタイルというか打牌にブレが出たことです。浮き沈みはあるのだから、打牌を貫いていればトータルでは勝ち越していい結果になっていたかもしません。

良いとこ取りしようとしてアッチへフラフラ、こっちへフラフラ。定まらない打牌で成績も徐々に落ち込んでいきました。

 

序盤に挙げたように、そのうえで打点での押し引きなどを基準にブレないのがやはり一番安定します。

守備や攻撃のバランス、鳴きのバランス、どれをとっても押し引きのバランスを崩すことが一番不安定になりがちです。

守備に偏り過ぎて打点を上げられずに勝ち切る試合が減ってしまったり、鳴きを入れ過ぎて安い手で押すようになってしまっていたり。

 

このあたりは体験している人も多いかと思いますが、読みによる打牌選択もそれに加わると思っています。

上手くいくときは本当にハマるのですが、逆に悪いほうにもハマりやすい。

「ドラ3なんて聴牌外すよりもカンチャンでリーチいっておく手だった」「相手が自分の待ち牌を持っていそうだから」なんてことが増えたら損をするだけです。

 

麻雀の結論は「わからんことはわからん」以上にならないんだなぁ・・・。

 

 

 

麻雀を楽しんでいるか?の話

MZM(モンスターズメイト)の雑談動画が好きなのだが、そこに天開司も登場する。

動画内で何がとは言わないが「ゲームは楽しむためのものだから…!」と語るテンツ。

 

当ブログでは麻雀をメインに管を巻いているが、どのゲームにしても皆さん楽しめているだろうか?

「遊びなんだから楽しんでるに決まってるだろ」という方ももちろん居るかと思います。

しかし中にはマルチプレイの付き合いで、特に好きでもないのに継続して惰性でプレイしていることもあるだろう。

 

ソシャゲなどは「やめたら勿体ない」「これまでの課金や時間が無駄になる」と半ば義務のように感じている人もいる。

大昔もゲームソフトを買ったら、ハズレでつまらなかったとしても「お金払ったしプレイしないと無駄になる…」と渋々クソゲーをやり込んだり…。

今みたいに体験版もなければ動画で内容紹介してくれることもない。ジャケ買いしてハズレを引くなんてことも。

 

思い切って「このゲームはつまらないからやめよう」と踏ん切りをつけるのも必要だ。

続けること以上に「新しい出会い」も財産になる。

もしかしたら義務感でダラダラ続けているだけの娯楽よりも良いものに巡り会えるかもしれない。空き時間のソシャゲをやめて休憩を取るようにしたほうが仕事や勉強も捗るかもしれない。

 

あるいは楽しみ方を変えてみるのも手だ。

雀魂でいえば金〜玉の間でレベル差が開くとされている。

実際に銀〜金の間であればノーガードの打ち合いになりがちだが、玉からは非常に渋い展開になりがちである。

当然アガるよりもオリることのほうが圧倒的に多く、耐えるだけの展開が増える。

手作りをすることもなく、参加することもなく、ただひたすらオリるだけのゲームを何局も何半荘も繰り返すだけになる。

 

そうなると痺れを切らして「こんなのつまんねーよ!俺もゲームに参加させろ!」と打牌が荒れて放銃が増える。

それでは通じないのが玉〜王座の間だ。

麻雀はひたすらランダムで良い結果を引くだけのゲームとなる。

先制を取られたらオリ、打点がなければオリ、形が悪ければオリ…。

そうやってやめてばかりなのが大半になる。ラス回避のネット麻雀では尚更だ。

 

それがつまらないと感じたら銀や金の間で打ち合いの麻雀をしても良いのだ。

というか、大半の人がそのくらいでエンジョイしているだろう。

麻雀に限らないが上にいってシビアになるほど、気軽に楽しめる領域も減る。

ミスは許されないし、気楽に短い時間で楽しむのも難しくなる。

何事も序盤から中盤くらいが手軽で楽しさを実感しやすいのだ。

 

才能が無くても、の話

麻雀はカジュアルなゲームであるからこそ、他の競技ほど天賦の才が必要になるということもない。

堀慎吾が鈴木たろうに憧れてプロ入りし、「こんなすごい人がいるのかと思ったら二年くらいで追いついちゃった…w」と冗談めいて語っていた。

初中級者向けの麻雀講座でも「これを覚えろ!」「この決まりを守れ!」というだけで、ある程度以上の実力にまではなれるのが麻雀。

 

逆に言えば「何切る」「牌効率」「ベタオリ」「点数計算」こういった普遍的な基礎部分、あるいは「暗記部分」と言い換えてもいい。そこのところを疎かにしていると、いつまで経ってもレベルアップできない。そういった厳しさもある。

「誰でもできる」が、「誰でもできるのにやらない」のでは「強くなれない」ことを言い訳できない。

勝又健志をして「努力する人には教えられるけど、やらない人には教えても仕方がない」と言わしめるほど。清一色の待ちをすべて暗記しているとする勝又に言われてはぐうの根も出ない。

 

確かに麻雀自体は不確定要素の多いゲームである。

しかし、麻雀において「覚えるべき基礎」というのは「暗記で済む」のは間違いない。

バスケットでシュートフォームを練習をしたり、サッカーで正確なパスやトラップをするというのは繰り返しの練習で試行錯誤が必要になる。

だが麻雀の知識のほとんどは暗記で済むのだ。繰り返し試行錯誤するのは押し引きやバランスの保ち方になるだろう。そこは長い目で見てもいいし、時代によって流行り廃りも変化するので固定されることはない。

 

「麻雀が強くなるのに才能は必要ない」「麻雀に天才はいない」という言があるが、まさにこれは他の競技を見ればよくわかる。

麻雀は他の競技ほどごく一部の選ばれた人間以外がトップに立てないゲームではない。運による偏りがあるにしても、カジュアルさが裾野の広さを持っているのだ。

ただ、将棋や囲碁といった実力有利のゲームにしても、情報収集と研究を日頃から煮詰めている者が優位になれるのは間違いない。麻雀においてもそこは変わらない部分である。

 

では、現代においてそれを実行しているプレイヤーがどれだけいるのかという話。

麻雀はプロであっても現在は将棋や囲碁奨励会のようなものはない。幼い頃から才能を賭けて生涯を捧げるほどの環境は整っていない。

ほとんどが大人になってから他に仕事を持ちながら、掛け持ちでプロ活動を行っている。となると日夜麻雀の研究などに専念するというのは難しい話だ。

 

「プロなんだからそんなことはないだろう」と思う方もいるだろうが、どの業種であってもプロの中でも様々である。

超一流もいれば、三流だが親しみやすい人もいる。二流でほどほどだが、仕事もリーズナブルで頼みやすいなどなど。住みわけがあって成り立っている。

楽家であれ、野球の選手であれ、誰もが超一流で、それ以外は存在していないわけではない。

 

「自分は世界一のベーシストではないが仕事はある。それは何故か。世界一のベーシストが演奏しているとき、他の会場では別のベーシストを使うしかないからだ」

超一流が一人いれば全てを回せるわけでもない。

そういうわけでプロの中にも幅がある。プロとして活動できているがゆえに「一切の淀みなく、すべてを修める」ということをしなくなってしまう人がいるのも世の常だ。誰もが超一流を目指すわけでもない。それが間違いとは言わない。

 

だからこそ、「努力できるのも才能」といった言葉が生まれるのだ。

プロとして活動し、生活も成り立っている状態で、「さらに上を」「さらに完璧を」と目指すモチベーションを持ち続けられる人間は少ない。

暴君とされる人間も「野心がある」とすれば、それは平穏な生活を望む者には無い才能なのかもしれない。

 

麻雀で覚えられることはまだあるのに、得手不得手や日々の繁忙に流されて手を付けなくなっているのではないか。私も耳が痛い。

だが、やはり、それができるのも才能というか。「そこに納まるかどうか」が人生において重要であるように思う。

私はのんびりとした性格なのでのらりくらりとしてしまうのだが、とてつもなく人生に焦りをもって生きている同業種の人間もいる。そういった人間のほうが日々を必死に生きているのは間違いない。

 

平穏な日々に美味しい食事と健康。

嗚呼・・・、私の野心など、無いに等しい。

 

打牌批判をするなよの話3

youtu.be

 

神域リーグ主催者の天開司が出場を辞退して、実況など運営に専念することを決めた。

まぁ、その理由として「打牌批判を見続けてモチベーションを保てない」ということだった。

上の動画を見ると「ネタにしただけちゃうんか!すでに実況運営に専念するつもりだったんちゃうんか!w」とも思ってしまうのだが、それはまぁ、置いておいて…。

 

下記の動画でも麻雀講座系Youtuberが集まった場で、配信のコメント欄について語られている。

 

www.youtube.com

 

基本的に視聴者側は「専用のコミュニティを(自分で)作れよ」という結論になっている。(1:09:00あたり)

これであればポジであれ、ネガであれ自分の言いたいように言える場を持つことができる。

「打牌批判をしない」の延長として、最近では「必要以上に褒めすぎてない?」という声もチラホラ聞くので、ゆうせーさんの言うように実況解説側は「フラットな状態」という意識も必要な感覚になってくるのかもしれない。

それはそれで、エンタメとして盛り上げるところはワッ!と湧かせるような。

 

・感想は他人のもの

書き物の世界では「作品は作者のもの、感想は読者のもの」という言葉があります。

ある作品について読者があーだこーだと感想を言ったとします。それについて作者が「いや、その感想はおかしいだろ」なんて言うのはお門違いだとする意識です。

逆に読者が作品について、まるで自分が制作に関わっているかのように作者に対してあーだこーだ言うのもおかしなことです。

 

感想という面で、「読んでどう思ったか?」は読者に許された自由なのです。

作者もそれを侵すことはできません。読者が作者の意図しない感想を送ってきたとして、それはその人がそう思ったのなら、それで良いのです。

それが合っているとか間違っているとかはないのです。選手の打牌についてもそれと同じことが逆の立場で言えます。

 

私は打牌についても「まぁ、そう思う人がいてもおかしくはないよね」というくらいにしか思いません。

明らかに損な打牌をしたのであれば、批判意見が出てくるのは普通のことです。

ただ、それを選手に直接送るだとか、目につくところでコメントする必要があるのかという話。

 

「お前が打ってんじゃねえんだぞ」「お前の麻雀じゃねえんだぞ」ということ。

それはその人の麻雀であって、その人が自由に打っていいんです。

それに対して「あー、その手順じゃ間違いだよ」とか思うのも自由ですが、発言する自由はあったりなかったりTPOです。場合によります。

 

逆に選手側の立場で考えた場合には「キミはそう思ったのね、ハイハイわかったわかった。これは俺の麻雀だから黙って見てろ」くらいに考えてスルー。(できれば楽なんだろうけどねw)

麻雀は選択が微妙で難しい局面が多々あります。何だったら本当に差が無いこともあるし、微々たる差で有利なほうを選んでも結果 裏目を引いて批判されることもある。

結果論は本当にクソですが。経過をちゃんと見て評価するのも大変なので、結果だけ見ていっちょ噛みしてくる一見さんも少なくない。

 

打牌は選手のもの、感想は観戦者のもの(そして胸にしまっておけ)。

まぁ、このくらいの感覚でいないと振り回されます。

 

上の配信の違う部分なのですが(58:00あたり)、「ガチ勢になると諦める部分が出てくる」という話。

このあたりのメンタリティも上位陣の考え方としてあるある。

「麻雀止めらないって思って、打たないって選択肢がなくなった時点で強くなるしかないから煽られても何言われても気にしないっていうかw」

振り切ったらここまでのメンタルには確かになるw 麻雀に限らずw

 

何事も「そんなのやっても無駄だよ」とか「もっとうまい人いるじゃん」とか言われても、やってる側からしたら「はぁ?だから?」としかならないんですよねw

「お前は何もやってないのに何言ってんの?」ってなっちゃうんですよ。

「やってるやつが一番偉い」以外にないんですよ。頭で思ったり、口出したりするだけの人間なんかいくらでもいます。実際に行動できるだけで、何もやらない人間よりは先に進んでるんですよね。

 

だからテンツに文句垂れてる層は「お前がVtuberになって神域に出ろ」って話で、「俺がテンツをコメントで鍛えてやる」なんてのは頭わいてます。

それとは関係なく、ただ嫌なコメントを送りたいだけの人間もあたおかです。

まぁ、まともじゃないですね。自覚してない人が大半だろうけど。それどころか自分はまともで周りがバカくらいに思ってるでしょうけど。

 

 

まやかしの話

最近、身の回りで耳にする麻雀の話題がオカルト染みていたのですが、「そんなのただの偶然だろう」ということでも必然性をもって起きると信じてしまうのが人間というもの。

麻雀は約8割が運で、残り2割程度が実力だとされる。人によっては7:3ということもあるが大差はない。

ということは8割は「偶然」に過ぎないのだ。その中で2割は人の意志がもたらした「必然」になる。

 

我々が人と人の勝負として凌ぎを削るのは、この2割のためであって8割の偶然のためではない。

だが結局のところ、この割合も完全に見極めるのは不可能だ。

対面が序盤に8mを外しての9m待ちになったのは、意志をもった先切りだったのか、それとも手牌が溢れてリャンメン固定しただけなのか、浮いた牌にくっ付き直しただけなのか・・・。

 

ネット麻雀であれば後から牌譜で打牌意図を探ることは可能だが、卓上の麻雀では相手の口から聞かされない限り打牌意図は不明だ。

ただの偶然を「一体どうだったんだ!?」と勝手に深読みしてドツボにハマる展開も無くはない。

このときに卓上であれ牌譜であれ、相手の打牌手順に明らかなミスがあれば「ただの偶然だったか」と落胆とともに安堵も戻るのだが、ここの見極めができないと運に翻弄されるだけになってしまう。(まぁそれがなくても運ゲーなんだけど)

 

・偶然を必然だと錯覚してオカルトが生まれる

ただの偶然に過ぎないことを「必然に起きたことだ」と錯覚するのがオカルトの発生源といえる。

実力のある打ち手なら「これを狙ってやるのは無理だ。ただの偶然にすぎない」と気付けるところを、「まさか狙ってやったの?強すぎるよ!」と勘違いしてしまうのが初中級者のあるあるだろう。

だから読み筋に入らない打牌を「こういうのは駄目なんだ!」と無根拠なオカルトで理由づけしようとする。

 

麻雀マンガではよくある展開だが、現実でこんなことをやっていたらキリがない。偶然の産物に過ぎない麻雀の結果を、さも全てが必然であるかのように考えることが無理なのだ。

偶然が8割、必然が2割。

そう考えれば打ち手の思い通りに事が進むことなど、まずあり得ないのだ。だがそうは見えないのが偶然の産物というもの。たまたま起こったことなのに、まるで必然性を持って生まれたかのように見えてしまう。

 

麻雀が人をまやかすのはこの部分が非常に大きいだろう。

よくパチスロを指して「技術介入がある」と言われるが、「台の設定以上に結果に関わる技術介入」など無いのだ。

つまり勝つか負けるかは座った台の設定によるもので、自分の腕前は取りこぼしが多いか少ないかにしか関わってこない。「自分の腕がいいから設定1の台でも、設定6の台くらい勝てた」というのは奇跡でも起きない限りはあり得ない。

 

しかし麻雀とて「勝てるときに勝って、負けるときに負けを少なく」という方法以外で長期的に浮きを作る方法などありはしない。

だからギャンブルにすぎないのだ。

自分の腕前が良いから勝てる、というのは超上級者が超初心者を相手にしたときぐらいだ。他は短期的には運でトントンになりやすい。

 

「実力があれば勝てる」というのも、ギャンブルにおいてはオカルトというか、まやかしに過ぎないんだよなぁ。と思った話であった。