お気持ち麻雀と将棋の形作り

将棋には「形作り」という用語がある。

勝敗がほぼ決まった盤面でありながら、劣勢側が相手に王手をかけたりして、数手消費してから投了する形などを意味する。

 

局面が変化することはないので無駄な手数をかけているだけとも取れる行動になる。

本来であれば大局的にも手筋的にも詰みが見えた時点で投了してしまえばいい。

だが「それではちょっと盤面が映えない」という理由で相手の玉に対して詰めろをかけて、「お互いに攻め合いましたね」という雰囲気を盤面に醸し出して終わろうとする意図があるとされる。

 

「とも取れる」とか「あるとされる」とか多くない? と思った貴方、これはいわゆるお気持ち案件なので表立って「そうなんです!こういうことなんです!」とは言えないんですよ!察して下さい!

「なんか一方的に負けたっぽく見えちゃう(実際一方的に負けてる)から、攻め込んだように見える手順も入れておこう」なんて、ややもすると情けない感じが出るじゃないですか!

これはお作法であってマナーや礼節なんですから!黙って受け取るんですよ!

「ここでもう詰みじゃないですか、なんで続けるんですか?」なんて田内翼(麻雀プロ)みたいなこと言っちゃ駄目ですよ!

 

と、まぁ…茶番はさておき。

将棋の放送対局では「放送枠の消化」という意味でも形作りは行われるだろう。なにせ午前から午後まで対局時間が設けられているのに、「開始1時間で決着しちゃいました!」なんてなったら、「じゃあ残り5時間は感想戦しますか」というわけにもいかない。(前日からの封じ手込みならあり得るが)

ある程度、時間を稼いで放送時間のキリのいいところで終えようとすることもあるだろう。

 

理由はともかく形作りの慣習そのものが「お気持ち案件」であることには間違いない。純然たる勝負の世界には必要のない要素だ。

実際に形作りを行わない棋士もいる。

 

・「投了」についても同様の議論はある

投了とは将棋や囲碁やチェスなどの卓上遊戯において、自分の負けが確定した時点で「負けました」と宣言してゲームを終えることを意味する。

「最後までやらないと勝敗は判らないじゃないか」という疑問はあるだろうが、将棋などは盤面の情報がすべてで不確定要素は無いため「何らかの要素で局面が覆る」といったことは起きない。

あるとすれば相手のミスであるが、投了せずに差し続けるということは「相手がミスしてくれれば勝ち筋がある」という儚い希望にすがる行為でもある。

 

勝ちにこだわるのであれば、その姿勢は間違っていない。可能性がある限りは追い続けるのも良い。実際に複雑な終盤であればそれは起こり得る。だが単純な詰み筋で間違えようがないレベルのものまで投了せずに続けること自体が無駄だし、相手に対して「お前はこの単純な詰み筋ですら間違えるよな」と投げかけているようなもので失礼にあたる、とする考えもあるとされる。

 

投了しない棋士もいたというが、形作りとは逆に相手の持ち駒がどんどん増えて盤面も酷いことになったという。

こういった経緯を推し量れば、現代の将棋においての形作りが慣習として根付いたのも理解できる。

 

・麻雀における形作りは発生するのか?

結論から述べると発生しないと断言できる。

そもそも麻雀はオーラスで役満をアガって逆転する可能性が常に残っている以上、「見た目を優先して綺麗に終わる」などという行為をする理由がない。仮に配牌時点で役満が見えなくてもツモ次第でそうなる可能性がゼロではないうえに、将棋の詰めろのように「相手次第(ミスを待つ)」などということもない。相手が出さなくてもツモれる可能性もある。

 

麻雀でも王位戦などの決勝では条件を追って無理に役満を狙うことはあるが、それを「みっともない」とか「美しくない」といった批判がされることはまず見ない。まぁ、それでしょうもない放銃をして他の順位に影響したなどの場合は「お前ひとりで麻雀やってんじゃねえんだぞ・・・」とは言われそうだが。

そういう点ではMリーグ最終節で優勝の可能性が無くなったドリブンズから出場した村上が掛けたリーチなどは議論になったが、(私個人としては)姿勢として正しいと思っている。(※この点は麻雀における「目無し問題」)

 

麻雀に投了が無いのは「不確定要素」があるから、常に何が起きるか判らないためである。となると、将棋のような「詰んでいる(局面が変化しない)ので綺麗に終わりましょう」といったことは発生しにくい。

あるとすれば最終盤にテンパイできないので安全牌を切って終わるだとか、そのくらいである。その場合でも「手牌(河)がなるべく綺麗に見えるように切って終わりましょう」などといったこともない。効率や安全が優先である。

 

放送対局などで問われているとすれば、河の並びや手牌の並べ方くらいだろう。こういったことはドリブンズの園田などが配信で度々口にしている。(「Mリーグで牌を切るのが遅いとか言われるんだけど視聴者の人にちゃんと牌を見せないといけないから自分でサッサと見切るわけにはいかなくて他からポンとかチーとか鳴きが入るかも少し待ってからツモをするんで一呼吸おくことで遅くなるんだけど雀荘なんかでは遅いって言われちゃうだろうね」と一息に喋ってる感じ)

ちなみに理牌はなるべくするように放送局側から言われているらしい。

 

・エンタメであるからこそファンが望む姿であるべきなのか

当ブログでは麻雀は運ゲーであるがゆえに、競技たりえなくエンターテイメントに留まると評している。その視点でMリーグを見た場合に、純粋にどのチームや誰が強いかというよりも好みの選手やチームを推すのが良いと思っている。

だからこそなのか、選手に理想像を求めるファンがいてもおかしくないのかもしれない。(それ自体麻雀ファンに限った話でもないが)

 

この記事を書いたきっかけはサクラナイツの渋川難波がPV配信で批判されていたという流れを汲んでのことだが(2023.03.03)、Mリーグにおける選手批判は度々起きている。萩原聖人が芸能人枠だとか、女性プロの不要論であるとか、ヒューマンエラーによる切り間違いやチョンボなどなど...。

定期的に起こる話題ではある。

 

件の渋川難波の打牌に関しては、らしいというか、鈴木たろうなどにもありがちだが、勝ちに行って(着順アップを狙って)さらにマイナスを広げるというのは良くある光景だ。しかしそれは戦闘スタイルの問題である。

ただ今回に関してはいくつか条件があって「素点を大事にしてほしかった」という要望がチームメイトから上がったのも話題のひとつだ。

 

ともかく「素点回復に8000点アガって終わりました」「素点を減らさないためにオリて終わりました」が、麻雀における「形作り」になるのではないか? という疑問が浮かんだのだ。

今回の件に関しては微妙なトータルポイント差で下位のチームが競っているといった背景もあるので、実際に素点考慮が有効であったかも問われている。サクラナイツファンが望んでいたのは素点回復だったのかな、とも思ったのだ。

自分は渋川難波を個人単位で応援しているため、打牌スタイルについても「まぁ渋川は押すよな」くらいにしか思っていなかったが、サクラナイツというチーム単位で応援している人からすれば「こいつ何やってんだ!」と思われても仕方がない面もあるかもしれない。

 

個人単位で見れば「押しの渋川」が見れて満足だったが、チーム単位で見ればトータル微差で競っている終盤の状態で貴重なポイントを-90も溶かして何やってんだ!となるのも理解できる。(前半に岡田が勝ち越したポイントもあったので余計に)

押し引き判断に「ファン効率」が入るというか、このへんは雷電メンバーを見ると何となく理解できなくもない。本田が初年度に伸び悩んだのは、やはりこのあたりだったのだろうか。

「押しの渋川」も見たいが、「サクラナイツの渋川」も両立させなければならない。そのバランスをまだ探っていかなければ ならないのかなと思う。

 

で、結局それってもう勝負には関係がないんじゃないかと。

ファンや視聴者が納得する形(落とし所)を探るものであって、勝負としてどうなの? というのは疑問になることも増えるだろう。

今回の場合は如実に素点を減らし続けたのはどうなのか、という疑問がチーム内から上がったので実際に勝負が絡む面も多分にあったのだろうが、将来的には将棋の形作りのように視聴者を納得させるためや見た目を整えるための「素点回復5200点終了」なども出てくるのだろうか・・・と思った次第である。

 

実際にそういった着順アップ無しのラス確定で素点回復だけのアガりで終えている場面も何度か見ている。