他人の打牌を批判するなという話

私は他人の打牌をつい批判してしまう癖がある。

グッと抑えて飲み込む一呼吸がおけない。・・・とまぁ、それはともかくとしてだ。

 

麻雀において不可思議な放銃というのは上級者になっても無くならないものだ。「なんでそんな牌を切るんだ」と客観的には思ってしまう打牌は少なくない。

それは単純にヒューマンエラーによる切り間違いや見間違いであることもあるし、ネット麻雀であれば対局中に何らかの邪魔が入って正常な状態で打てなかった、ということもあるだろう。

ともかく意図不明な打牌について批判するにも、相手の主観で見れば理由など何とも言えないことがあるのかもしれない。

 

加えて上級者同士の戦いであれば、いわゆる「勝負牌」というのもあるだろう。

親のリーチに対して危険牌をバシーン!と打って勝負に出る。12000点からの聴牌じゃ!となれば危険牌を強打しても納得できる。

あるいはその人の読みで「あの手出しならこの牌は通るはず…」という目論見で切った牌かもしれないし、自分の手牌と合わせてノーチャンスの安全牌になっているのかもしれない。

 

特に上級者同士であればこういった打牌には思い当たるところがあるので、場に対して強い牌が打ち出されたところで「なんでそんな牌切ったの?」とはなりづらい。「何かしら理由があって切ったのだろう」と察するところだ。

初中級者が混ざったときに、上級者が混乱しやすいのもこのあたりだ。

上級者同士であれば例えばリーチに無筋をバシバシ強打している人が居たとして、流局や和了で手が開いたときにドラドラ赤赤の聴牌だったりして、「なるほどそれは押す手だなぁ…」と納得したりするものである。

 

しかし初中級者の押し引き判断が無い麻雀だと「なんでそれを押すんだ…」といったことが多い。まぁ「オリる牌が無いので押すしかなかった」といったケースもあるが、それは手牌が開いたときに見れば納得できる形ではある。

オリる牌が潤沢にあるのに1000点の手を押すなど「どうして…」となってしまうこともある。本人的にはオリる牌が無いと見えたのか、相当に有利な形に見えたのか。

 

・「どうして…」が打牌批判に繋がる

本人にその気がなくとも、この疑問を問うことが結果として打牌批判になってしまうことがある。だからこそプロの面々はそもそも他人の打牌について言及することはしないのだろう。

麻雀とはどう打ってもいいのだ。セオリーや戦術や基本はあるにしても、それを無視して打つ人が居たとして、それはその人の自由…ということにはなる。

 

だがしかし、「なんでその牌を選んだんだ?」というのは脊髄反射で疑問に思ってしまうことも多々ある。(これを飲み込まないといけないのだろう)

麻雀に慣れれば慣れるほど、打牌にはセオリーや意図があると思い込んでしまう。明確に差がある選択で明らかに損なほうを選んでいる人を見たら「えっ、なんでそっち切るの?」と思ってしまうことだろう。

上級者同士であれば前述したように「何かしら理由があったんだな」というのは語らずとも判りあえる根拠が出やすい。だが、レベル差があれば理由がわからないので疑問に思ってしまうことはあるだろう。

 

「何か自分の知らないセオリーが存在する選択だったのか?」と疑問に思って「なんで切ったんですか?」と聞いてしまう。

だが、人によっては「そんなの聞くことじゃない」「セオリーも何もないただの切り間違いだろ聞くなよ」と思うだろう。「そんなことしたら打牌批判になる」「失礼だろう」となる。

真面目に聞いて「そうですか」となるのは田内プロを彷彿とさせるが、傍から見たら「なんでそんなことを聞くんだこの人は」と思われるものなのか。渋川視点の田内は「そんなことを聞くなんて僕にはとても・・・」と恐れられるほどだ。

 

・かといって判らないことを放置していいものか

田内プロが憎めないのは本当に純粋に疑問に思って聞いているからだと思う。

つまり嫌味で「なんであんな牌切ったんだよ、ええ?オイ!」などと言っているわけではないのだ。一般的に打牌批判とはこういう言い回しになることだ。

 

とはいえ、純粋に聞かれたとてショックなこともあるだろう。ミスを責められているように感じて嫌な人もいるだろう。

判らないことを聞くのは成長のためには良いことだと思うが、結局はTPOというか、人を選べというか。

やはり、その場で聞いていいものか一度飲み込むのが賢明だろう。