海外の動画だが、日本語字幕付きで13分ほどで見られる以下の動画。格闘ゲーム『ストリートファイター(以下SF)』について語られている。
テーマは『ゲームにおける技術介入の程度(それによるプレイ環境の変化)』だ。
記事の内容は動画をほぼ追っただけになる。
SF5では技術介入の壁が低くなり、新規参入者や新しいチャンピオンを生み出しやすい仕組みになっていると指摘。
その反面、SFシリーズを長くプレイしてきた既存のプレイヤーはアドバンテージが薄れているとされている。
技術指向のゲームは練習や知識の習得に多くの時間を費やすことになるが、それはそのままプレイヤーの利益となって返ってくる。
格闘ゲームの歴史もすでに長く、20年以上はあるだろう。ひとつのタイトルを長くプレイしているプレイヤーも少なくない。『ストリートファイター』『ギルティギア』『キングオブファイターズ』『バーチャファイター』『鉄拳』などなど・・・。
登場するキャラクターも新旧入れ替わるが、基本的な技の性能、対戦における駆け引きの知識などは共通していることが多い。そのためにプレイ年数の長いプレイヤーほどアドバンテージも生じやすい。
そのひとつに技術的なハードルの高さがある。
動画内では「コンボ」が挙げられていた。攻撃を連続で繋げて相手に反撃をさせずに、ダメージを与え続ける状態を指す。これは旧来であれば「有利にダメージを稼げる代わりに難易度が高いもの」とされていた。
反復的な練習が必要で、緊張の高い対人戦でとっさに出せるようになるまでは時間がかかる。技の特性やリーチを理解して、タイミングにミスがないように繰り返す。ガードされた後も反撃を受けずに済む中断個所を覚えておくなど。
これは初心者が一朝一夕で身に付くものではない。上級者たちはそこをアドバンテージとして維持していた。だが、これでは新規や気軽にゲームを楽しみたい者たちの参入を阻んでしまう面もある。
ゆえに開発元はゲームをよりカジュアルなものにした。
シビアなタイミングを緩和させ、コンボやディフェンスの難しさを無くす。今日ゲームに触れたものでも経験者と互角に戦える。(これで誰もがウメハラになれる!)
さらにインターネット対戦において、ラグによる遅延を付与することで「反射速度で差がつく」といったことがしにくくなった。技術的な問題もあるかもしれないが、これもトッププレイヤーにとっては痛手である。
100m 9秒フラットの者が、強制的に11秒フラットで走らされるようなもの。本来の自分のパフォーマンスとは無縁のところが勝敗に影響してくるのはストレスだろう。
動画内ではSFのこういった変化を「パーティーゲーム」と揶揄していた。ルールが簡単で、その場で誰でも参加できる。運による不確定要素が増えることで、強者が勝つとは限らなくなる…というのである。
・麻雀はパーティーゲーム
いうまもでなく麻雀は「パーティーゲーム」の分類である。動画内でも「ポーカー」を取り上げて「不確定要素のあるゲームでも強者はいる」と紹介しているが、その一方でパーティーゲームの作法において「勝敗は運によるもの」としている。
自身においても他者においても「負けたのは運のせいであり、実力ではない(そして勝利は実力と錯覚する)」が正しいとされているのだ。それがパーティーゲームにおいて参加者の尊厳を守る方法である、と。
そして、競技だと思われていた格闘ゲームがパーティーゲームになってしまうことへの批判が紹介されている。
「パーティーゲームで誰が勝つかは注目されない」「派手な展開だけが好まれる」「実力を競う場ではなくなる」「スポンサーが視聴者に向けるショーだ」など。
格闘ゲームもeSportsとしてEVOなどの大会が開催されている。それには資金面でスポンサーの力が不可欠だ。スポンサーは多くの視聴者と注目を集めたい。そのためにはショービジネスとしての面を強化していく傾向がある。
競技なのか、エンターテイメントなのか。
格闘ゲームは実際のところ、まだ半々だろう。ショーと知りながらも選手たちは強豪と戦う舞台として認識しているはずだ。まだその担保はされている。開発元によって格闘ゲームが「フォールガイズ」や「マリオカート」のような完全なパーティーゲームにならない限り、まだその余地はある。
Mリーグは間違いなくエンタメであり、ショーである。
皮肉にも上記のすべてが当てはまってしまう。格闘ゲーマーが危惧する未来をMリーグは地でいっている。まぁ、結局は麻雀のゲームバランスがそっち寄りだということだ。
・映画「リアルスティール」
単純に名作なので未見の方には是非お奨めしたい。
原作 リチャード・マシスン、2010年に映画化。主演 ヒュー・ジャックマン。
近未来では人間が行う緻密なボクシングは消え、代わりにロボットが雑に殴り合うだけのショーへと変貌していた。その過渡期で現役のボクサーだった主人公のチャーリーは、リングサイドでロボット操縦者としてドサ回りの日々を送っている。
ロボットボクシングへと移行した理由を主人公のチャーリーは「客は高度な技術戦なんか求めていなかった」「派手な殴り合いが見れればそれで良かったのさ」「だからロボットになった」と嘆いていた。
ボクシングや格闘技も興行、ショーとしての側面が強くなった。本来は強さを競うための場であるが、観客のためのものになった。とはいえ、これを今さら嘆くのもおかしなものだ。そもそもローマ時代のコロシアムから闘技者は大衆の見世物だった。
注目の集まる勝負事というのは大衆に向けた良いショービジネスになる。スポーツ、格闘技、卓上遊戯。
これらが誰のものか?
主催者? 観客? 選手? スポンサー?
それを決めるのはそれぞれだろうが、いつか、どこかでその閾値が変わってしまうこともあるだろう。選手にとってまったく旨みのない大会。行われるのは、勝負ではなく完全なショーと化したらどうなるか。驚くものを見たいだけならサーカスかイリュージョンへ行けばいい。ショーのプロだ。
こういったものの終焉に八百長であるとか、出来レースなんてものが生まれるのかと思う。Mリーグや神域リーグもそうならないことを祈るが、まぁ心配するまでもなく麻雀は偶然だけで「イカサマだろ」という展開が常なので大丈夫だろう。
ちょっとくらいやってもバレへんて・・・。