卓上遊戯と賭博の話

将棋囲碁チェス麻雀と、卓上遊戯には常に賭博行為が付きものである。

個人間の軽微なものもあれば、碁会所や雀荘のような店ぐるみで行っている場合もあり、ときには刑法185条により賭博行為の取り締まりを受けることもある。

日本は基本的に民営によるギャンブルを許してはいない。賭博行為には厳しいお国柄でもある。

 

パチンコ店などは風営法を基に経営しているが、実態としては三店方式による賭博行為が日常化しており、雀荘のチップの賭け合いなども不思議と思う人は少ないだろう。

それとは別に公営のギャンブルがあり、競艇・競馬・競輪などが当てはまる。これらは国が管理して運営するという前提で成り立っている。

実際にはそうしないと暴力団など反社会的な組織が仕切ることになり、八百長出来レースが当たり前になったり、払い戻しがきちんと行われなかったり、組織の資金源になってしまうなど問題が多発する経緯からだ。

(まぁ国が運営してもこういった問題は完全には無くならないが・・・)

 

格闘技界もこれに近い状態には常に晒されている。興行として大きくなると、そういった反社会的な組織が噛んでいることが明らかになって解散させられたり、興行を停止させられた団体も過去に少なくない。

とかく、こういった興行には反社会的な組織や人物の関りが取り沙汰されて台無しになりがちなのである。

 

麻雀がMリーグとして発足するにあたっても、これを懸念してスポンサーにはなりたくないと取り下げる企業が多かったという。

麻雀、ギャンブル、賭け事、違法行為、反社会的行為。こういった印象が大きかったのだ。

それは現在で見ても変わっていないと思う。「麻雀」といえば「賭け事」と連想する人は多いだろう。

 

麻雀もいっそのこと競馬などのような国営のギャンブルになってしまえば後ろ暗いこともないのだが、そうもいかない。

協会などが大会を開催して長い年月が経つが、そのイメージに変化は無かった。そこに変化を与えたのがMリーグだと思う。

一般企業が多く協賛し、これまでの後ろ暗いイメージから脱却したように思う。

 

・今後まだ数十年は「麻雀=賭け事」は付きまとう

私が子供の頃には将棋というものはNHKでプロ同士の放送対局が行われ、新聞などに棋譜が載り、メディアでプロ棋士が受け答えする環境があった。

そのため私は将棋に対して「賭け事」という印象を持っておらず、むしろ市井でそういった行為があると聞いたときは驚いたほどだった。

私個人としては「勝負事」は好きなのだが、「賭け事」は別に好きではないのだ。これは過去のトピックにも何度か書いている。

 

将棋囲碁チェス麻雀などにしても、別に賭けなくても十分に面白いのだ。

だが市井では小さいレートにせよ、個人間にせよ賭け事が行われる。

MTGなどのカードゲームも、勝敗でカードを賭けたりする行為は見られる。

 

勝負と賭けは別の行為なのだが、一般的には一緒くたに考えられてしまうことが多い。そして少なくとも、多くの割合で人が好むのはギャンブルであり、勝負ではない。

私は別にギャンブラーを嫌っているわけではないが、もともとスポーツ畑の人間なので「なんで賭けないと面白くないのか解らない」というのが正直なところだ。勝敗があれば十分だと思うのだが・・・。

報酬が欲しいのであれば働いたほうが早いし確実だ。その余暇としてギャンブルがあるのなら解るのだが、博徒の多くはこれが逆転している。

 

そもそも「生粋のギャンブラー」なんてものはフィクションの世界にしか存在できない。パンチコやスロットで稼いでいる人間も、いずれは破綻する。違法行為やギリギリの行為を繰り返して食い繋いでも先は無い。

賭けというのは基本的に胴元が収支をプラスにして、客側は長期的にはマイナスにしかならないのだ。

だから娯楽にしかならず、生業にはならない。生計を立てている人間は確かにいるが、他に配信やライターの仕事などを持っていることが多い。その分野に詳しい、という意味でプロは存在する。

 

世界があと1000年進んでも賭博行為は無くならないだろう。なにせ1000年前だって同じ、2000年前でも同じだったのだから。

麻雀の話に戻そう。

麻雀界のギャンブルのイメージもまだしばらくは払しょくされないだろう。

 

一般的なゲームとして認知されるようになったとしても、それはここ20年ほどの新規や若手を中心にした考え方で、50代以上の人間からしてみれば「麻雀なんて賭け事に決まってるだろ!」という認識は消えないのである。

歳を取ると人間は情報の更新ができなくなる。昔の認識のまま長い老後を過ごすことになるのだ。

つまり、そういった世代が刷新されない限り世界は変わらないのである。

 

ストレートに言ってしまえば、そういった世代が鬼籍に入り、麻雀をゲームとして見て育った世代が台頭すれば「麻雀=賭け事」といった認識は薄れていくだろう。

今はまだその過渡期、その入り口といった程度だ。

 

じゃあ、上の世代のジイサマ達を説得して「麻雀はもうギャンブルじゃないんだよ」と説得するかと言われたら、それをする効力は薄いだろう。

こういったことは常に時間が解決するのだ。世代ごとの価値観というのはそれほどまでに根強い。

ただ、Mリーグ発足のために尽力した先駆け的な人々の挑戦は評価されるべきだ。この効力の薄い部分へと挑んだのだから。他にもネット麻雀の普及など時代が味方してきている雰囲気はある。

 

そのきっかけがあって、いまは時と共に入れ替わりを待つフェーズになっている。

もしMリーグの運営や選手が(麻雀以外でも)違法な賭博行為・・・なんてニュースが流れたら、それだけでこの環境は瓦解するだろう。

「やっぱり麻雀は囲碁や将棋のように競技化は図れない、賭博の分野なんだね」と歴史が逆戻りしてしまう。

 

 

押し引きの評価が最終的に高くなる話

例えば「小説を書くこと」が、言葉や文章を扱う上で高等な総合技術だとして、単語や文法の用い方などは基礎でしかない。

逆に単語や文法にいかに詳しくても、小説を書くという総合的な技術に昇華できなければ宝の持ち腐れ(小説を書くという目標に対して)になってしまうだろう。

麻雀における牌効率や何切る、あるいは守備の知識といったことは最終的に卓上の「点数のやりとり」に関わる要素のひとつでしかなくなる。

 

牌効率が完璧であれば必ず相手よりも先に聴牌してアガれるわけでもないし、守備が完璧なら絶対に失点せずに4着は引かないわけでもない。

どちらも完璧であってとしても負けるのが麻雀で、どちらも不完全だったとしても勝てるのが麻雀だ。

勝率を上げるうえで上級者が微差の研究に取り組むことは間違いではない。

 

しかし、麻雀が最終的に目的とするのは「点数のやりとり」であって、華麗な打ち回しであるとか、鉄壁の守備だとか、そういったものではないのだ。

それらは点数のやりとりをするうえでの駆け引きの要素でしかない。目的ではなく、手段でしかないのだ。

とはいえ、手段の研究に勤しむ者がいても、それはおかしなことではない。それら研究者が出した結果をもとに、実践に赴くのもまた様々な分野において進歩の鍵となる部分だ。

 

だがプレイヤーがそこに傾倒してしまうのは本末転倒といえる。

卓上のプレイヤーであれば「その場限りの平面的な何切る」よりも、相手との点数のやり取りを重視しなければならない。

そもそも「何切る」をやりたいのであれば4人で卓に付く必要すらない。ただひたすら自摸を繰り返して、研究に値する牌姿がきたら保存しておけばいいだけだ。(というかランダムジェネレーターでカチカチしたほうが早いな・・・)

 

現代麻雀において未だ研究の多い「何切る」であるが、おそらくあと数年のうちに打ち止めになると思う。何万パターンあろうと、「形次第の何切る」はすでに組み合わせが出きっているだろう。

となると、「あ、この形のときはね。コレ切るといいよ」が即答されるようになる。今でも大半はそうだろう。それでも絶対の解答が無いように思うのは「どっちでもいい」が麻雀にはあるからだ。

それを永遠のテーマのように議論する。「30%と30%」であれば正直どっちを選んでも同じことだ。だがおそらく議論に決着はつかないだろう。

 

それはもちろん平面的な何切るでないことも多分にある。場況を含めて「これ切って正解だったのかな・・・」という部分に寄っていく。つまり結果「押し引き」に到達しているのだ。

麻雀が卓上で4人で戦う競技なのだとしたら、どうやって戦うかは手段でしかない。そして技術とは「使いたいから使う」ものではない。「使うべき時に使う」ものなのだ。

ときに人間は目的と手段が逆になることがある。卓上で点数を競って勝つのが目的であるのに、自分の知識や技術を用いたいがために目的を見誤る。

 

魅力的な手牌に翻弄される展開に似ている。

「こんなのオリちゃもったないよ~」「役満だしいっちゃえー!」とやらなくていいことをやって逆転される。

まぁ、それも麻雀ではある。

 

麻雀強者が最終的に押し引きを評価するようになるのは、平面的な牌効率や守備といったことは基礎中の基礎であり、それを含めたうえで「この場況でどうなんだい?」ということが細分化されていくからだろう。

これもここ10年ほどの現代麻雀に限っての話だ。

今後は場況を含めた押し引きのケースも一見しただけで「あ、これはね。打たないほうが基本的には得」と即答されるようになっていくだろう。

 

若手の雀士からすれば「何を今更こんな話をしているのだろう」と思うかもしれない。

これ以前がどうだったのかといえば、麻雀界の重鎮とされる人間たちが大真面目に「流れは~」とかオカルトを口にしていたのだ。それを「なにバカなこと言ってんだ」となってきたのが、ようやくここ10数年のことなのである。

もちろん以前から確率をもとにした雀士は多かっただろうが、麻雀そのものがオカルトや接待やイカサマやハッタリに支配されていたのだ。

 

確率通りに打っていてもイカサマされたら収束しない。接待されたら確率が偏っておかしなことになる。オカルトをもとに打つ人が同卓すれば数字なんてどこか飛んで行ってしまう。

ゲームとして成り立っていない。

まぁ、いまでもそういった面は色濃く残っているだろう。

 

牌効率や守備の基本を学んで、場況を含めた押し引きを学んでいく。確率に挑戦する。オカルトを眉唾ものと分別できる。

それがようやく整ってきた。そして進歩している。

 

 

 

ノー和了ノー放銃ラスの話

「麻雀は実力ゲーだ」なんて言う人は、一回もアガらずに勝てるのかという話。

絶対に不可能な話です。まぁ、天和をアガるよりもさらに低確率でそんなことが起きることもあるかもしれませんが、おそらく麻雀史上一度も無いでしょう。

半荘戦であれば必ず誰かが和了します。誰も和了せずに聴牌料や席順だけでトップになった、なんてことはまずありえないでしょう。

 

それぐらい麻雀において「ノー和了(ヤキトリ)」というのは、その時点で「勝てない」のが決定されてしまうわけです。

では、アガりが作れないのは下手なのかという話。初心者であればそれもあるかもしれません。しかし中級者以上、上級者となればまず「アガりが作れない」なんてことはありません。

あるとすれば聴牌しても押し引きで不利とみて、引いた場合です。「そんなことやってるからアガれないんだ!」という人はただのゼンツなので、それ以前の話です。

 

オーラスで引いたら条件が無くなるのであればゼンツにもなりますが、そうでなければわざわざ不利な勝負をして収支をマイナスに持ち込むほうが損です。

とはいえ勝負手を押してもアガりを取られてしまっては同じこと。それも結局はノー和了ということになる。聴牌したからといってアガれるわけではない。

それを「実力だ」とか「自力で何とかできる」なんて人はいません。すべて運次第です。それが現代において麻雀の限界なのです。

 

それを承知してもゲームとして楽しめるので手を付けてはいるものの、間違っても「実力ゲー」なんて思えませんし、思いません。 絶 対 に 運 ゲ ー で す 。

「長期的に見たら~」なんて話もありますが、それも「プロと素人を混ぜたら勝敗に差が付く」くらいの話です。プロとプロでやっていたら結局は運が偏ったところが勝つだけです。

よくネット麻雀で「1000半荘くらい打てば実力が出る」なんて言うのは、その1000回のうち何回も素人と当たるからです。だから勝ち越しが数字になって表れる。

ある程度以上になると勝ったり負けたりの繰り返しになるだけで、勝ち越しの回数は減っていきます。

 

・アガれない麻雀で着順を維持できるのか?

まず無理な話です。

つい先日もMリーグで「全員ノー放銃」という回がありました。渋川と仲林が序盤から耐えに耐えて、滝沢と本田がツモ合戦を繰り広げた半荘。

南場の時点でノー和了の渋川と仲林はそれぞれ3,4着でした。二人とも手は入っても後手を踏んでオリ、テンパっても危険牌を引いて手を崩し、とにかくアガりに恵まれない。

対して滝沢はもう超ラッキー状態で何をやっても聴牌即リー一発ツモ…といった状態。本田もリーチをすればツモってアガる。

 

仲林と渋川は両者ともに丁寧に慎重に打ちまわして放銃を回避し続けるもチャンスに恵まれずにラス争いに。

オーラスで仲林は逆転二着の大物手がさっくり入るも、親の渋川はバラバラで速度も無い手牌・・・。ここで仲林が初アガりを掴んで逆転2着で終了となった。

試合後のインタビューでも渋川は「放銃0だったんですけど・・・、アガりも0じゃあ・・・」と苦い顔。

その後スタッツで試合を通して放銃0の半荘だったことが明かされる(Mリーグ史上2回目らしい)。

 

耐えて着順維持になることもあれば、耐えても周りが勝手にアガって加点して、自分だけ置いて行かれてしまう展開もある。

 

昼になってYoutubeで女流戦を見ていたのですが、そこでも4半荘ヤキトリという選手がいました。じゃあ打ち回しが下手なのかと言えば、それぞれ各地方から予選を勝ち上がってきている代表。そんなわけもなく、普通に手が入らないだけ。

6半荘してもアガりらしいものがまったく無いまま終えてしまった。トータルでの成績もよくなるはずがなくマイナス。

実況解説も「え・・・、まだ一回もアガってないの!?」と驚きの声。選手本人も前半は耐えていたが、終盤からはだいぶストレスが溜まっていたようだった。

 

こういった選手たちを「お前が下手だからアガれないんだ」なんて言える人がいるのでしょうか。まぁ、せいぜい「そういう半荘もあるよ」とか「そういう時期もあるよ」と慰めるくらいでしょう。

しかし、実際には「麻雀がそもそも、そういうゲームなのだ」ということ。「実力でどうにかなる」とか「いつかどこかで運が向く」なんて思ってしまうからイライラする。

そもそも運ゲーであり、公平でなく、理不尽なんです。

 

将棋や囲碁のように、卓についた時点でお互いに「公平なスタートを切って、実力で差が付く」というゲームではありません。麻雀は「不公平なスタートを切って、さらに不公平に差が付く」というゲームです。

同じ枚数を配られてゲームが開始されても、その時点で差がついています。その後も順番に自模っても手牌に差がつきます。局ごとの点数も差が広がります。

不公平でどうにもできない展開があって当たり前、そこに実力なんて関係ないんです。実力を発揮できるかどうかすら運次第なのです。圧倒的に運に支配されていて、人間がそれをどうにかできるゲームではないのです。

 

負けたときだけこれを思い出すのではなく、勝ったときにも常に心に留めておくことです。「勝ったのは実力」なんてのは思い上がりも甚だしいのです。

多井が「ボクは麻雀星人だから!」なんてお茶らけても、ジョークで言ってるだけです。たぶん!

負ける卓に付かされたら誰でも負ける。それが当たり前。

 

だから麻雀をやり込んだ人ほど「こんなのクジ引きと変わらねーよ」なんて愚痴も出てしまうのです。

 

 

 

麻雀の体感で学ぶ部分の話

何事も知識だけではなく、体験として「このくらいだな」というのは必要になる。

逆に体験があって、後から知識を得ても「そのくらいだな」という学びになる。

 

麻雀でも統計と確率で「このくらい」と提示されても、自分の体感として「このくらいか」というのが身についていないと、知識をモノにしたという感覚は無い。

スポーツの練習でも「こういう風にボールを蹴りましょう、投げましょう」というのはレクチャーとしてある。

しかし例えばキャッチャーミットの構えたところや、バスケのゴールリングや、サッカーのゴールポストに向かって投げたり蹴ったりして、最初から上手くいくことはない。

 

たまたま力加減など上手くいってベストショットになったとしても、それを続けられるかは別の話になる。それを何度も練習して「ピント(距離感)」を合わせていく。

そして、「このくらいの力加減なら、あのくらいの距離に飛ぶ」と判れば、力加減でコントロールができるようになる。さらに実戦であれば相手の邪魔も入る。それも想定してコントロールしきれるかを練習していく。

これを積み重ねることで「実力」になっていくだろう。

 

さらに工夫を加えて浮き玉から足元への転がるボール。変化球など応用や技が多様になって選択肢が増えていく。

ビルドアップすることでパワーや距離が増していく。

着実にレベルアップすることができる。

 

・麻雀における距離感

「この形は聴牌が有利」と牌効率や統計に出ていたとしても、「この場況のときに聴牌を取るのは損になることが多い」と自らの体験から導けることもある。

後にそれが細分化された場況から、統計でも「このときはいかないほうが得」と明らかになることもある。

このあたりが現代麻雀の先となるだろう。

 

牌効率や収支の計算がプラス要素であっても、全体の状況で見たとき、あるいは他家の手出しツモ切りなど、状況によって損得が変化する。数字があったうえで、さらにその数字を適用する場況を考慮していく。

数字の価値がその時々で変化する。麻雀とは一巡で価値が変わってしまう遊戯だ。

 

アドリブとでもいうか、数字だけ頭に入っていても上手くいくわけではないのが麻雀だ。少なくとも現代においては「アドリブ」であっても、いずれは研究が進めば「この状況での%は覆る」という解答が出てくるようになるだろう。

それがセオリーとして定着していく。例えばドラ1の愚形は現代であれば即リーチが得とされているが、徐々にケースが積み重なれば「でもこのときは打たないほうが若干得」という状況が定石になっていくだろう。

 

スポーツでもそうだがトッププレイヤーが理想とするプレーをすることで、それが後の世では基本の一つとなることがある。

現代麻雀のトッププロ達が「そう言われてるけど体感として、こういうときはちょっと違う気がするんだよね」と感じていることが徐々に具現化されていくことがあるかもしれない。

データが出揃うことでそれまで定説とされていたことが変わっていくかもしれない。

 

世間的に流布される情報と、トッププロが公表する前の「肌感」ではギャップがある。

現場でやっていると「やっぱりあれってちょっと違うよね」といったことが言われるのはどの分野でもある。

より多く、身近にそれを感じている人間だからこそ判る違和感…そういったものを体感できる環境に身を置くことが学ぶうえでは最適なのかもしれない。

 

 

 

それは実力ではないですよの話

ちょうどここ最近のMリーグで瑞原、茅森、東城と立て続けに「リーチしては放銃に回ってハコシタ」という展開を目にしたのですが。

和了した側の視点でいえば「運が良かった」以外に言うことは無いんですね。

だってリーチされた後に当たり牌も掴まず、危険牌の強打をしても放銃せず、現物待ちになってどこからでもアガれる状態になった、なんて三拍子揃うようなこと「運が良い」以外にありますか。

 

これを実力だと勘違いするのが麻雀なんですね。

 

たびたび書いていますが麻雀で「上手くいった」というのは、「運が良かった」の言い換えにすぎません。本当に「上手くいった」なんてのは存在しないんです。

何故かって?

麻雀というのは常にランダム要素に付きまとわれて「狙い通りに打つ」なんてのは不可能だからです。

 

「目標があるところに人間が狙いを定めて撃って当てる」

という現象ではなく、

「人間が目標としたいところに撃ってたまたま的がそこに来る」

という現象なのです。

 

本来、狙うべく的のほうが後から来る。しかもそこに来るかどうかは運次第なのです。これが麻雀の実態です。

なので、「当たった!オレ上手い!」と思ってしまうのは危ういところがあります。

どんな射撃のプロでも、的が後から動いてくるのでは確実に当てるなんてことは絶対に不可能です。機械に射撃させても同じことです。的のほうが来るか来ないか、というゲームになってしまえば精密射撃で命中率100%のマシーンでも結果にブレが出ます。

 

麻雀のAIに打たせた結果にブレが出るのと同じことです。麻雀において現象を支配しているのは法則性のないランダムという要素で、そこを完全にコントロールすることは何ものにも無理なのです。(少なくとも現時点の人類には)

であるにも関わらず「オレ、麻雀が上手いんだぜ」なんて勘違いしてしまう人が出てくる。

そりゃ上手さはありますよ。でも、それは言ってしまえばプレイヤーの大半が到達できる「上手さ」です。こんなのはあの人にしかできない、という領域には及びません。

 

だから麻雀で勝敗がつくことには実力差よりも運のほうが重要になってきます。運に対抗できる技術的な能力といえば、押し引きくらいになるでしょう。

手が悪ければオリて無理はしない。手が良ければ強く押していく。その判断基準くらいしか人間が運に対してできることはないのです。

そして押し引きが完璧だったとしても負けます。手牌がどれだけ良かったとしても、やはり勝敗は運次第なのです。

 

冒頭に挙げた三者のリーチ手順を否定する人はいないでしょう。打って当然といえるリーチだったと思います。手順的にも十分だった。しかし結果が着いてくるかは後追いになってしまう。

麻雀の達人は必ず勝てるわけではない。射撃の達人とはワケが違う。何せ的のほうが勝手に動いて弾に当たってくれるのを待つしかない。どれだけ腕があっても自分ではどうにもできない。できる状況になったとしたら運が良いということになってしまう…。

そこが麻雀の行き詰まり。そして新たな開拓分野でもある。

 

いわゆるアナログ・デジタルなんて言われた世代はもう旧世代でしょう。

アナログなんて世代はもう滅んでいます。今ではただのオカルト扱いで新鋭の雀士には相手にもされないでしょう。

アナログ世代に対抗していたデジタル世代も今はその中でさらに分野が分かれてきていると思います。世代差が進んできている。

 

私は麻雀を日頃から運ゲーとして忌み嫌っている部分もありますが、現代においてはそのランダム性こそ解明すべき部分とされているように思います。

そしてもちろん、結果が付いてくるか来ないかは運次第でランダムです。

しかし「常に確率の高いほうを選び続ける」「状況の細分化を進める」というのが現代麻雀の解析かなと思います。

 

それが明確に表れてくるのは、やはり押し引きの部分になってくる。牌効率だ河読みだ、なんてのはもう基礎の部類に移行していると思います。

そのうえで「あの手出し4sから3-6sが当たる確率は、2-5sよりも高いよな」といった読みのレベルへと変わっていくでしょう。

常に確率を相手にする。

手順だとか牌の形なんてのは覚えて当然、そこから確率による比較を常にしていく。

 

そしてそれを貫けるか。さらには貫いたとしても結果が付いてくるかは運でしかない。

そこは結局は越えられない壁なんですが・・・。

同じことをしたとしても結果は人によって異なる。「俺とお前で何が違うってんだよ!!!」というのは人生の残酷な一面です。

 

 

 

オカルトをメンタル処方する人の話

筆者自身は非オカルト派なので、そもそも幽霊だとか超自然的なパワーなんてものも信じていないのですが、麻雀のオカルトについても同様。信じてはいません。というか信じる理由がありません。

もし「5巡目の牌は勝負に関わる牌だ」なんてオカルトを言われたとして、それが統計的に実際にそうなることが多かったのであれば、それは「事実」となる。その時点で「オカルト」ではなくなるわけです。

これまでのオカルトとは、地球の上の未踏・未開の地の如く「わからないから」「真偽不明」だからこそ、「もしかしたらそうかも・・・」という悪魔の証明めいた信仰がありました。

 

宇宙人がいないとは否定できないから、地球外生命体の存在についてNOとは言えない。とでも言うようなオカルトが麻雀界にも実在していた。

しかし、その多くが現代においては統計という数字によって正体を暴かれてしまった。我々が神事や悪魔崇拝的に信じ込んでいたアレやコレが、ただのまやかしに過ぎないと気づかされてしまったわけです。

魔法や錬金術が科学にとって代われたようなものでしょう。

 

今でもその名残のようなものを見ることはできますが、これからその分野が発展することは無く、縮小していくと思われます。

 

・メンタル維持のためのオカルト信仰

しかし、一方でオカルト自体は決して滅びないと断言できます。

誰も信じていない、数学的にもランダム性が明らかにされる中でなぜ生き残れるのか。

それは私たちの歴史の中で宗教という信仰が失われないのと同じです。人間とは「偶然の産物」であっても、そこに理由をつけなければ生きていけないのです。

 

自分や身の周りの人が不幸な目に遭ったときに特に理由などなかったとしても「きっとあの時のせいだ」「バチが当たったんだ・・・」と自分を納得させようとします。

映画『フライト』の中で、事故に遭い、助かりながらも後遺症を負ってしまったパイロットの一人が妻と共に神に祈るシーンがあります。「神のご意思なのです」と。

もちろん事故はただの偶然で不運でしかありません。しかし、信仰的に見ればそういった視点で見ることもできる。神の与えた試練なのだと。神は何か理由があって自分にそうなされたのだと。

 

日本で信仰する宗教が比較的に自由度が高いのは素晴らしいことだと思います。一部のテロや政治事件に関わる組織を除けば、いや、それであっても通常の活動は許容されるのだから相当です。

麻雀のオカルトも信仰を否定することは誰にもできません。その人が信じたいのであれば、信じていいと思います。

Mリーグでも副露をほとんど使用しない黒沢咲選手は「鳴くと(麻雀に)良くないことが起きちゃう気がして…」と以前インタビューで語っていました。(そのときは実際に鳴きでツモ牌がズレたことで相手に有利な展開になってしまっていた)

 

「鳴くと良くないことが起きる」。

これは抽象的でこれだけに絞ってデータを取っても何も結果は得られないと思います。

例えば副露した後に相手に有利な牌が入る確率は、副露しないときに比べて25%UPする…なんてことが起きると考えられるでしょうか? 無いと思います。

もしそれが事実としてあるのならば、今後の麻雀で副露する人は殆どいなくなるでしょう。それぐらい恐ろしい現象です。しかしそれはあり得ません。

 

ではなぜ黒沢選手はそれを語るのでしょうか。おそらく黒沢選手自身のプレイスタイルに関連していると予想できます。

彼女は鳴きを入れずに面前で高い手を作るスタイルであることは確かです。他にも同じようなスタイルの打ち手として近藤誠一選手もMリーグにいました。

近藤選手はより鳴きを入れるスタイルでしたが、基本は面前高打点です。しかし現代麻雀では副露を使ったスピーディな展開もメジャーです。

 

実際にそういった時代の波に押されながら生き残っているのが面前派と呼ばれる、副露の少ない打ち手だと思います。

小林や園田は副露も多く、ゲームにより関わろうとする「参加型」の選手だと思います。それと比較して近藤などは勝負にいけないとなると、ひたすらオリるのを繰り返すだけの展開も多くありました。

そうなると現代麻雀においては手牌次第で「何もしないでオリているだけ」になってしまう局がどうしても多くなってしまうこともありました。半荘単位でそうなってしまう展開も少なくなかったです。

 

バランス型の選手であっても手牌が入らなければ結局は同じことですが苦しい展開になりがちです。

こういった苦しい立場のときに自分の精神を支えるのがオカルト、ということになるのでしょう。黒沢選手の「鳴きをすると良くないことが起きる気がする」というのも、自分のスタイルを支えるためかもしれない。

現代雀士であれば「そんなこと信じていられない」という人は多いでしょう。それを心の支えにしてブレない麻雀を打つなんて…、と。

 

常軌を逸した行動だとは思います。しかし、だからこそ通常では成しえない領域に到達することもある。

黒沢選手のアガりはときとして、そういった一面を光放っています。

「普通ならこんなのあり得ないですよ・・・」と実況解説が何度言ったことか。

 

・一般人のオカルト信仰

同じようにメンタルを保つために嘯くオカルトは多々あります。

「こういう流れのときはアガれないわ」

「ここでこの牌をツモってくるんじゃ駄目だね」

「あのスタンプを押してくる相手はこうだ」

 

などなど・・・。

そんなこと判るわけないじゃんw

というのが実際です。

 

しかし中には頑なに「いや、でも本当にこのときは駄目なんですよ」と貫き通す人もいる。以前は不思議に思っていたが、「これはメンタルを支えるためにやっているんだな」と思ってからは不思議に思わなくなりました。

統計や確率をもとに思考する雀士であれば「正着を選んだけど、今回は確率的に低いほうを引いてしまったな」と割り切って次に行くことがメンタルコントロールになっていると思います。

そうはなれない、あるいは別の思考方法としてオカルトを用いる人がいる。「あの牌がキー牌だったから切っちゃ駄目だったんだ」とか。

 

事故の話と同じで人間は起きた現象について「何か理由をつけなければ納得できない」のです。

実際にはただの偶然で理由なんかありません

三巡目に相手にヤミテンでロンされて18000点だったとしても、それはたまたま相手に良い配牌と自摸が入って、たまたま自分が当たり牌を掴んでしまっただけで、何も理由なんて無いんです

 

でも「そんな偶然は起きるはずがない」「たまたまそんなに上手くいくなんて考えられない」と思ってしまう、あるいはあまりにも理不尽な目に遭い続けたがゆえに「なんで自分ばっかり!おかしい!!」と理由探しを始めてしまう。
自分を責めがちな人は「自分が何か悪いことをしてしまったんじゃないか・・・」と不安に思うかもしれません。ただの偶然に過ぎなかったとしても。

人によっては「牌操作」だとか「雀魂は~」「天鳳は~」なんて理由づけも出てくるのでしょう。これも一種のオカルト信仰といえます。

 

何の理由もなく自分が酷い事故に遭ったらどう思いますか?

「なんて理不尽なんだ」

と憤ることでしょう。麻雀とは常にそれです。勝っても負けても理不尽の方向がどちらに向くかの違いでしかありません。大半の上手いとか下手とかを超越しています。

圧倒的な理不尽。覆せないランダム性。

そこに神か悪魔がいるというのなら私は信じますけどね。

 

 

トップ取り麻雀とラス回避麻雀は両立する話

南2~3局で、得点が以下のような配分だったとする。

 

東 29000

南 27000

西 26000

北 18000(自分)

 

このときに「ラス回避麻雀だからトップ狙いはしなくていい」となるだろうか?

もちろん状況によってはアガりの難しい12000点を捨てて、まずは3900や5200点のアガりを優先することもあるだろう。その場合にはラス回避が重点になった選択と言える。

だが、手組の構想として序盤は高い手を狙いつつ、トップを目指すことはこの局面で間違いとは言えないだろう。

 

ここで仮に8000~12000を加点したとすれば、それは「トップを取る」と同時に「ラスを回避する」にも大きく働くのだ。

「何がなんでもラス回避を優先するんだ!」と3900や2600で取りやすいほうを選択しても、まだそれだけで決まる局面でもない。

であれば後の局を考えて高い加点をして、ラス争いになりやすい3~4着から抜けるようにすることは必然ラス回避にも繋がる。

 

「ラス回避麻雀なのにトップ取り行動するなんて・・・」というのは、もっと別の局面での話だ。むしろ点数を持っていたり、オーラスでギリギリの着順を争っている場面になる。

上述した状況の場合は、まずそもそも自分はラスであり、安いアガりをしたところでまだ南2~3であれば再逆転される可能性もある。

そうであれば加点を大きめに見積もることは悪い選択とはいえない。

 

もちろん、他家からの副露やリーチが来ても悠長に「トップをとるためにこの手は12000点にしないとな~」などとやるほどでもない。

その場合はかわしたり、小さいアガりでも妥協していくことになる。

プロリーグ最終節や大会での条件戦であれば、条件を満たす手以外に価値は無くなるため、無理にでも高い手にしていくことはあるが、ネット麻雀の段位戦では柔軟さも求められる。

 

・トップ取りかラス回避かも押し引き

この状況判断も押し引きの一種とみていいだろう。

先日、上記の状況でしきりに「ネトマはラス回避なのにトップ狙いすぎ」という意見を見て違和感を覚えたのだ。

確かにネット麻雀はラス回避重点だが、上記の状況であればトップを狙うことが自然とラス回避にとって最善の行動となりやすい。

 

仮にこれがオーラスだとしても逆転には5200の直撃以上がほしい場面。であれば手組の基本は満貫クラスを目指すことになる。

その手前の段階としても、逆転条件を軽くするためのアガりを見たり、選択肢は多い状況だ。必ずしも「トップ取りを避ける」という場面ではない。

例えば手牌に最終形がリャンメンになる3900のリーチ、これをわざわざカンチャンの三色8000にしてリーチするべきなのか。これは考えどころである。

 

一発逆転もあるが、まずは加点して条件を軽くしたいというのもアリだし、次の局に良い手が入るとも限らない。勝負所と見てカンチャンを狙いに行くか。ウラやツモでも8000になる可能性は低くない。

ここはアガりやすさと打点の天秤である。

これを無理矢理に河に見えて枚数の少ないカンチャンで強行したら「トップ狙いすぎ」と言われても仕方がないかもしれない。

ここまできてようやく「やりすぎ」と言えるくらいだろう。

 

ホンイツ満貫の副露手をリャンメンからシャボ待ちのトイトイにしてアガり逃したり、

「やりすぎたー!」「欲張りすぎたー!」というのは麻雀あるあるだろう。

条件はできていたのに、さらに上を狙ってしまった。

ここのところのさじ加減が何とも難しい。だが、やはりアガりやすさも重要な部分でやり過ぎは損をしやすくなる。(裏目を引くこともあるけどね・・・なんでわざわざ狭いほうを一発で・・・)

 

ラス回避麻雀は確かに無理にトップを意識する必要はないが、状況によってはトップを目指すことが結果としてラス回避になる場面もある。

「3着でセーフ」と言えるのは終局時の話で、それ以外のゲームが続行した状態での三着というのは常に「次に4着になる率がもっとも高い着順」であるのだ。

ゲーム途中では常に1~2着を目指し、上位の着順をキープできればそれに越したことはない。(「3着は背中が冷える」とはそういうことだ)

 

これを無理に押して放銃し、1~2着から着順を落とすといった行為こそ「ラス回避麻雀なのに・・・」と咎められる行為になるだろう。

または4着から3着に抜けられるオーラスで「トップを取るんだ!」と、3着目から直撃の手をスルーしたり。アガリ逃しの手組をしたり。

そのあたりのバランスが正しかったのか、痛い目を見たのであれば精査が必要になっていくだろう。