麻雀の体感で学ぶ部分の話

何事も知識だけではなく、体験として「このくらいだな」というのは必要になる。

逆に体験があって、後から知識を得ても「そのくらいだな」という学びになる。

 

麻雀でも統計と確率で「このくらい」と提示されても、自分の体感として「このくらいか」というのが身についていないと、知識をモノにしたという感覚は無い。

スポーツの練習でも「こういう風にボールを蹴りましょう、投げましょう」というのはレクチャーとしてある。

しかし例えばキャッチャーミットの構えたところや、バスケのゴールリングや、サッカーのゴールポストに向かって投げたり蹴ったりして、最初から上手くいくことはない。

 

たまたま力加減など上手くいってベストショットになったとしても、それを続けられるかは別の話になる。それを何度も練習して「ピント(距離感)」を合わせていく。

そして、「このくらいの力加減なら、あのくらいの距離に飛ぶ」と判れば、力加減でコントロールができるようになる。さらに実戦であれば相手の邪魔も入る。それも想定してコントロールしきれるかを練習していく。

これを積み重ねることで「実力」になっていくだろう。

 

さらに工夫を加えて浮き玉から足元への転がるボール。変化球など応用や技が多様になって選択肢が増えていく。

ビルドアップすることでパワーや距離が増していく。

着実にレベルアップすることができる。

 

・麻雀における距離感

「この形は聴牌が有利」と牌効率や統計に出ていたとしても、「この場況のときに聴牌を取るのは損になることが多い」と自らの体験から導けることもある。

後にそれが細分化された場況から、統計でも「このときはいかないほうが得」と明らかになることもある。

このあたりが現代麻雀の先となるだろう。

 

牌効率や収支の計算がプラス要素であっても、全体の状況で見たとき、あるいは他家の手出しツモ切りなど、状況によって損得が変化する。数字があったうえで、さらにその数字を適用する場況を考慮していく。

数字の価値がその時々で変化する。麻雀とは一巡で価値が変わってしまう遊戯だ。

 

アドリブとでもいうか、数字だけ頭に入っていても上手くいくわけではないのが麻雀だ。少なくとも現代においては「アドリブ」であっても、いずれは研究が進めば「この状況での%は覆る」という解答が出てくるようになるだろう。

それがセオリーとして定着していく。例えばドラ1の愚形は現代であれば即リーチが得とされているが、徐々にケースが積み重なれば「でもこのときは打たないほうが若干得」という状況が定石になっていくだろう。

 

スポーツでもそうだがトッププレイヤーが理想とするプレーをすることで、それが後の世では基本の一つとなることがある。

現代麻雀のトッププロ達が「そう言われてるけど体感として、こういうときはちょっと違う気がするんだよね」と感じていることが徐々に具現化されていくことがあるかもしれない。

データが出揃うことでそれまで定説とされていたことが変わっていくかもしれない。

 

世間的に流布される情報と、トッププロが公表する前の「肌感」ではギャップがある。

現場でやっていると「やっぱりあれってちょっと違うよね」といったことが言われるのはどの分野でもある。

より多く、身近にそれを感じている人間だからこそ判る違和感…そういったものを体感できる環境に身を置くことが学ぶうえでは最適なのかもしれない。