守備の選択肢の話

バスケットの動画で興味深いものがあったので、ストリートバスケで活躍するプレイヤーとGリーグで活躍するプロの1on1対決。

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途中の細かいテクニック紹介はさておき、プロ側の選手は3:30付近で「(ストリートプレイヤーの彼は)ミドルレンジ以上のシュート精度が良くないと判断したので、ゴール下にドライブされるほうをカットして、ロングレンジでのシュートは打たれてもいいと判断した」とディフェンス側の視点を語る。

このあたり、プロスポーツであっても確率の勝負をさせられている面がよく伺える一言である。

 

さらにスポーツなど実力が反映されるゲームならではの側面もある。つまり彼は「ゴール下なら俺が止めてみせる」と言っているとも取れる。(実際にはゴール下が得意な彼の邪魔をしてシュート成功率を下げる…になるか)

ロングレンジでシュートを打たれたらお祈りゲーだが、ゴール下で勝負するというのなら実力で防いでみせる。相手の得意なことを封じて、苦手な部分で(確率の低い)勝負をさせると言ってもいい。

フィジカルによる強引なチャンスメイクもそうだが、麻雀の場合はここが常に運ゲーになるのが厳しいところだ。

 

だが、常に受け身にはなるがリスク管理はできる。リーチへの放銃や、ドラポンなど見えている高い手に振り込むくらいなら、他家の安いアガりに振り込んでも良いと判断するような場面だ。

格ゲーの押し引きでもあった損得勘定がそうだ。

麻雀においてプレイヤーが関与できる部分というのは、この押し引きに限定されるといっても過言ではないだろう。

守備の格言に「切る牌は自分で選べる」があるように、麻雀でプレイヤーの意志が介在するのは手牌から何を切るかという部分に集約される。

 

それがアガりに向かう一打となるのか、守備に徹した一打となるのか。

上記の動画内では「シュートを打つなら決めきるつもりで打て」ともアドバイスされている。

麻雀でも攻撃に向かったプレイヤーが「打ち切ってアガったほうが安全度が高い」と勝負に出ることもある。このあたりも勝負勘として必要な部分になってくる。

それを助けるのが現代では局収支などの統計要素になってくるだろう。

 

・選択肢を削るのが守備

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こちらもバスケットの動画から、守備をメインにしたもの。

 

バスケットはサッカーよりもさらに短期的にドリブル・パス・シュートの選択が繰り返されるスピーディなゲームだ。その中で「どれを・何を選択するか」が攻撃側の択になるが、それを削るのがまずDFの仕事だ。

守備というと「止める」ことをイメージする人も多いだろうが、まずは「邪魔をする」のが第一の仕事と言ってもいい。

ドリブルひとつ取っても、相手にリズム良くやらせてはシュート成功率も上がってしまう。それを気持ちよくさせないのも守備の入り口なのだ。

 

その結果として止めるというシチュエーションにまで持ち込める。

いきなりブロックだけを狙うプレイヤーは得てしてフェイントなどに簡単に引っかかってしまう。

サッカーにしてもシュートコースを限定して、最悪GKが止めてくれるまでコースを絞れればいいのだ。DFが常に完全に止めるまでいかなくてもいい。

 

上記の試合の中でもDF側は何本かシュートを打たれて決められている。

だが、それは麻雀で言えば「自模られてアガられるのは仕方がないが、自分は絶対に放銃しない」という方法で確率を下げるのと同じ。

最大限DFをしたうえで、打たれたシュートの何本かが入ってしまうのは確率の上では仕方がないと判断されるのだ。

もちろん、そのシュート成功率が非常に高ければ偶然ではなく、相手プレイヤーの実力が高いということで止めに行かないとゲームを制されてしまうことになる。

 

麻雀では守備か攻撃かの判断がまず問われる部分はあるが、配牌の時点で「これはだいぶ守備寄りだな」ということもある。

そのときに「当たり牌を止める」「放銃をしない」ということの他に、「相手の邪魔をする」という視点でもできる行動があるはずだ。

ドラの役牌を河に出さずに流局させるであるとか(自分のアガりが見えない手牌なのに打って相手有利にさせてしまう打ち手は少なくない)、下家に赤牌を流さないようにしたり、ケイテンを取らせないために終盤でも鳴けない牌を切るだとか(単純に上家に合わせて鳴ける牌を切ってしまうミスはある)。

 

守備を「相手に決定機を与えない」というだけで考えてしまうと選択肢が狭いこともある。

よく言う「相手の嫌がることをやれ」というのは、「邪魔をする」「有利に取らせない」ということになる。そうなると細かい選択肢は増えてくる。

もちろん麻雀の場合は自分の手牌が魅力的な場合は、他者に構うよりも、自分の都合を優先させたほうが良いのもよくあることだ。そこの判断も誤らないようにしたい。

 

 

その選択は流されてない?の話

人と人の間で生きるから「人間」と書く、という話。

集団で生きる以上はどこかしらで他者と関わって生きることになり、結果として協調性とか調和というものが重要になってくる。

ただ、そのために「他人を気にしすぎて、自分の選択を曲げている」という現象が起こりえる。

 

これをやるとあらゆる物事は途中で止まります。伸びることは決してないです。

何故なら、9割の人はトップレベルには無いからです。

周りの大勢が「そんなことやっても駄目」とか「意味がない」とか言ってくることになります。それが正解なこともありますが、逆に言ってしまえばそれは「トップになれなかった人たちの言い分」でもあります。

 

それを聞いていたら1割のトップに成れると思いますか?

よくトップクラスの人の中には「自分勝手」だとか「ワガママ」なんて評判が付くこともあります。

それは「周りの言うことなんか聞いていたら成長できない」という思いがあっての面もあったためでしょう。

 

プロにでもなって周りがトップクラスばかりになれば話は変わってきますが、世の中の大半は悪く言えば凡人です。その人たちに合わせて流されてもトップクラスにはなれないのです。

しかし!しかしですよ。協調性のある人たちほど、ここに合わせて迎合してしまいます。そして滞留します。いずれ固定化し、抜け出すことができなくなります。

まぁ、それで平穏で幸せな日々が送れているのであれば良いです。

 

そこに後悔が生じるのであれば離脱してみるのも手です。

 

私は元が自分勝手な性格で、通知表にも「協調性がない」が書かれ続けた人間なので、逆のパターンで苦労はしていますが、よく目にする光景で、

「右に行けば正解なのに、何故かみんな左に行くことになって失敗する」

みたいなパターンをよく見てきました。

 

どう見ても「右が正解」なのに、何故か「みんな左に行こうか」となって失敗するのです。

しかし、これがある種の協調性というものなのでしょう。その場の空気が「左だよね」とか、リーダー権のある人が「左に行こう」となれば、それに従うのが集団行動のうえでは正しいということになる。(結果失敗でも)

 

麻雀の選択にしても、人生の選択にしても、そればかりでは上手くいきません。

たまには自分の直感に従ってみるのも大事です。自分の道を突き進んでみるのもいいものです。

その結果、学ぶものがあるかどうかは自分次第。誰のせいにもできませんがね。

 

 

勝負事の押し引きとは?の話

毎度言っていることですが、勝負事において「押し引き」という概念は常にあります。ただし、それが概念化や言語化されているのは麻雀における「押し引き」というものだけであるように思います。

ですが、勝負師であれば「それ」が存在しているのは理解しています。「この場面でこれをやったら損だな」とか、「こうしたほうが得だったのかな」とか、常に局面ごとに考えることはあるようです。

それがスポーツであれ、格闘ゲームであれ、FPSバトロワであれ。

 

現代麻雀がここに行き着いているのは、麻雀というものがシチュエーションのゲームであるという側面が強いでしょう。

他の競技やゲームであれば1時間に一回くらいの選択的な局面を、短時間で作り出して遊ぶことができる。それが麻雀の面白さのひとつです。

「ここで勝負したほうがいいのかな~~」「やめて守備に回ったほうがいいのかな~」「他家の様子を見て大人しくしたほうがいいのかな~」こういったシチュエーションが局ごとに毎回できあがります。

 

これは他のゲームと比較してもとても面白い部分だと言えます。

格闘ゲームは同じように短期的なシチュエーションが繰り返されるゲームですが、野球であれば試合中にそんな選択的な場面が訪れるのは2時間に数回だったりするでしょう。

Apexのようなバトロワ系のゲームも切羽詰まった終盤にこそ、そういったシチュエーションが多くなりますが、そこまでにかかる時間も30分くらいあったりします。
(でも夢中になってると気が付いたら数時間すぎてる・・・)

 

卓上ゲームでいえば囲碁や将棋も同じ部類に入るかもしれませんが、局面のスピードは麻雀のほうが早いと思います。また、麻雀は不確定ゲームであるからこそ、判断に揺らぎが生じやすいのも、それらとは異なる部分です。

ともかく麻雀というゲームは、こと押し引きに関しては他のゲームよりも、その概念を学ぶにあたっては良い教材になるのかもしれません。

以下の動画で格闘ゲームの押し引きを「損得勘定やね~」と紹介していますが、これはまさに押し引きそのものです。しかし、それを明確に言語化した概念としては捉えられていないのです。

 

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麻雀打ちにとっては「何を今更」という話に聞こえるかもしれません。(マウント)

麻雀も常にこれだといえます。「得な行動を積み重ねて、損な行動を避ける」、それが押し引きという概念、言語化された部分になるのです。

ただ、それが一筋縄ではいかないのがジャンルを問わず人間側の問題になる。

 

「必殺技ゲージ溜まってるし、ぶっぱしてぇ~~」と思っても、それよりも小パンチでけん制したほうが得な場面かもしれません。

「スキルゲージ溜まってるし、ぶっぱしてぇ~~」と思っても、それよりもナイフで近接したほうが得な場面かもしれません。

役満テンパイ、ゼンツしてぇ~~」と思っても、オリたほうが得な点数状況かもしれません。

まぁ、上級者から言わせれば「そんなことで悩むなんて小学生かよ」という例えかもしれませんが、大げさにそこまでではなくとも駆け引きの中でこれが出来なくなるのが人間というものです。

 

または、以前した掘り下げの話のように、とことん突き詰めた結果「いまのどっちが正解だったんだろうな~~」というところでせめぎ合いを始めるのが上位層の悩みになってきます。

ここまでくると本当に微妙なことが多いです。上記の動画の中でも「だからシチュエーションごとに、そういうのを知っておくことが必要になってくる」「それで損得がわかるようになってくる」と示されています。

これは麻雀ではまさにその通りです。「ドラ1はリーチ」というのは局収支で、数字の上では定石です。しかし例外的に「これは打たないほうがいい」というシチュエーションもあります。

 

実際には中級者までであれば、その細かいシチュエーションを気にするよりも、統計に従って収支に則ったほうが有利に働きやすいです。

しかし、ある時点からそれだけでは勝ちが安定しなくなる時期が来ます。

そこからはちょっとずつ例外を頭に入れて、シチュエーションごとに対応する必要が出てきます。麻雀において時間をかけて学ぶべき部分はここにあると言えます。

 

こういった勉強はそれこそトッププロが出している個人の書籍(初心者向けとか何切るとかではない戦術本)に多く紹介されています。

実戦を踏まえたうえでそれらに触れるのが有意義でしょう。

そしてだからこそ初中級者が、最初にそれらの本に手を出してしまうのはやめておけと言われる理由でもあります。(経験値不足で読んでも身につかないし、間違った定石を覚えてしまう恐れがある)

 

 

 

 

 

麻雀における偵察の話

対戦相手の戦力を把握するために事前に偵察をする話。

正直、短期決戦の大会などでは殆ど意味がないです。

例えば魂天や天鳳位やトッププロだとしても「当日の運次第」以上も以下もありません。局ごとの配牌や自摸のほうが結果に大きく影響します。当人の実力や打ち方のクセや傾向なんてものよりも、運のほうが圧倒的に強く出ます。

 

とはいえ、ほんのちょっとの差で勝敗が分かれるかもしれないと考えれば手を抜けないのも人の性。それも必要な要素でしょう。

しかし「素人でもプロに勝つのが簡単」な麻雀において、短期決戦の2~3戦なんて実力はほとんど影響しないです。

しないことはないけれど、超上手い人が8局すべてクソ配牌にクソ自摸で、何もできないままハコラスを3戦やってもおかしくないのが麻雀です。

 

そんな運ゲーに実力なんてそうそう出ません。

ゆえに逆に言えば「相手のこと見てきたけど大して強くなかったわ」なんてのもアテになりません。当日その相手がバカヅキしたら間違いなく何もできずにボロ負けします。それが麻雀です。

強さとか弱さを計れないのが運ゲーというものです。

 

「舐めるというのが解らない」という記事でも書きましたが、運ゲーメインの麻雀において、相手がどれだけ弱かったとしてもメンチン配牌で「ロンです24000点」なんてのがあるのが麻雀です。

強いて言うのならば、麻雀を舐めてかかると痛い目を見ます。相手ではないのです。

気を付けるべきは麻雀そのものなのです。

 

だから事前に相手のことを調査しました。強さはこのくらいでした。

でも麻雀は何が起きるか判らないから油断しないようにしよう。というのが正解でしょう。

「相手よえーから全然ヘーキwww」なんてのはワンチャン足元をすくわれます。相手にその力がなかったとしても、麻雀に足をすくわれます。貴方が実力だと思い込んでいる自分の力さえも、ただの運に過ぎないことを忘れてはいけません。

 

 

 

深掘りの話

当ブログでよく言う「微差」「超微差」の話。

初中級者はあまり掘り下げる意味が無いとも言われる部分。

基本から外れる部分でもあるため、基礎を学んでいる段階では教わるべきではないとされる戦術の類。

 

しかし、いずれは限界を迎えて「いや、このシチュエーションじゃ、教えられたセオリーじゃどうにもならなくないか?」という状況になったときに、じゃあ、セオリーを破ってでも生存ルートを探してみましょう。という話になる。

それ以外にも「習慣的にやってしまうこと」だとか「反射的にやってしまうこと」などを意識的に変えていく方法がある。

格闘ゲームFPSでも「このシチュエーションは運ゲーじゃないですか?」という視聴者からのコメントに対して、プロプレイヤー達は「まぁでも例えばこういう対策は取れるよね?つまりそれは運ゲーとは言えないよね」という深掘りを伝えている。

 

ただ、ライト層のプレイヤーからすれば「そんなところにまで気を使ってゲームやってられないよ」という話になってしまうのだ。

私も麻雀を始めて浅い頃からすれば「手出し自摸切りを見る」などということはプレイ範囲に入っていなかったし、「(河や切り出しの牌で)相手の手牌を予測する」だとか「(手牌読みを含めて、カウンティングで)山にある牌の残りを考える」ということも自分からは遠い非現実的なプレイングであったと思う。

 

やはり深掘りは、やり続けることで自然とそれを行えるほどに上達や場慣れしてからの話になるのだ。

最初からそこを目指す必要はない。

また目指したとしても得られる理解もないと思う。基礎あってこその応用なのだ。

 

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FPSプレイヤーの釈迦は「左右どちらかから敵が来るシチュエーション」において、「これを左右どっちかから来るって、両方を見てるとタイミングゲーになっちゃうんだよね」「自分が見てないタイミングで相手が来ました。タイミング悪い〜、みたいな」

「でも例えば片方だけに移動してたら接敵しないシチュエーションも作れるのよ。右にだけ移動してたら、左から追ってくる敵とは会わないようにできる」「次の角まで移動すれば、背後からの射線も切れる」

「で、マップ移動の距離が長い直線とか広い場所に出たときに、相手が背後にいたとしたら、自分を射線に晒すことになる」「そこでまた新たに選択が出てくる。(移動するとやられるので背後をカバーするとか)」
「そういうので負けたときに、それをどこまで掘り下げられるか、っていうのが強さに繋がる」

 

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格闘ゲーマーのボンも、いわゆるジャストディフェンスやブロッキングのシステムについて「運ゲーではないでしょ」と語る。

「タイミングを狙ってやるものであって、まずは読みありき」「相手がコレやってくるな〜、ってときに狙ってやるもの」

「なんかたまたまジャスパできましたー、ラッキー!ではない」

 

また特定のシチュエーションにおいて愚痴ったコメントに対しても、「ゲージが無くなったからジャストパリィ出来なくて負けました、ってのはさ。そりゃゲージ無くした自分のせいじゃん」「そのシチュエーションにしちゃった自分の責任じゃん。だからプロ勢は、そのシチュエーションにしちゃった俺が悪いよね、っていう反省の仕方をする」とも語る。

しかし、この手の話はカジュアルなプレイヤーからすれば「そりゃ理想論はそうかもしれないけどさ…」「そこまでストイックにやらなきゃなのか…」という、「実現し難いもの」という印象だろう。

 

だから深掘りの話は一定以上のプレイレベルに達していないと「現実味を持って受け取ってもらえない」のだ。

上級者から「手出し自摸切りを見ていれば、相手の牌姿を読んで避けられた放銃だ」と言われても、初中級者からすれば「そんな手品や曲芸みたいな無茶言うなよ」という非現実的な要素になってしまう。

そんなものをうまぶって最初から覚えようとしても空回りするだけになる。だからこそ「上級者が気にするような細部(深掘り)を無視しても、セオリーを覚えたほうが(最初は)トータルの成績は上がりやすい」とされるのだ。

 

・暗記と応用の話

ついでというか、これ一つで記事にするほどの内容でもないので。

少し前の記事で「麻雀の基礎なんて暗記で済む」と書いたが、これは「暗記した知識を場面に当てはめて使う」という応用前提のところがあった。

そこのところが説明不足というか欠けていたのだが、例えば「立直に対してスジの安全牌を選ぶ」というシチュエーションも、ドラ1sに対して「4sが切られているから1sは安心」とはならないように丸暗記した知識がそのまま使えるわけではない。

まぁこの程度ならプチ深掘りというか。そこまで難しくはないけど、基本から少し外れた知識の使い方(応用)というか。

 

自分はこういうところで「自分で考えてプレーする(押し引き判断をする)」というのが身に付いてはいるのだなと思った。

これもまた少し前に記事にしたが、教えを実直に守るだけの野球少年であるとか。そういった人達は素直であると同時に愚直でもあるというか。教えられたことを守り過ぎるというか。

そういう人たちに「暗記で済む」とだけ言ってしまうのは語弊があるな、と反省したのだった。

 

 

ストイックな戦いが出来ているかの話

麻雀というのは究極的にはギャンブルである。

仮に全員がまったくのミスも裏目も無く打ったとしたら「配牌と自摸が良いプレイヤーが勝つ」だけのゲームになることは理解できるだろう。

実力があるから他人よりもランダム要素が有利に働くなどということはない。どれだけ実力のあるプレイヤーでもゴミみたいな配牌と自摸を寄こされるのが麻雀だ。

 

つまり究極的に麻雀は「配牌と自摸のクジ引き」をやっているに過ぎない。

それを局単位、半荘単位で見たときに「どれだけ当たりを引けたか(ハズレを引かなかったか)」で勝敗を決めているに過ぎない。

途中で選択があるゆえにプレイヤーの多くはこの事実を忘れがちである。

 

「正解を選んでも負けるゲーム」というのはつまり、実力なんて関係なく勝ち負けが決まるゲームと言っても過言ではないのだ。

言い方を変えて格好良く繕っているに過ぎない。

ただの運ゲーだ。

 

麻雀をストイックに打つコツとしては「これはただのクジ引きに過ぎない」と自分に言い聞かせることである。

「他プレイヤーとの実力比べ」と思うから負けたときのイラつきが生じるのだ。

箱の中から1~4の数字を引きあうだけのゲームと考えたら「あー、今回はハズレ引いたな。はいはい、次々」というだけにしかならない。

 

実際に上級者になればなるほど局や半荘でのミスなど無くなっていく。それでも勝てないのであれば何が悪いと言えば運が悪いとしか言えない。

トッププロの対局を見ていても「運が悪いだけじゃん」「運が良いだけじゃん」という感想を抱いてしまうことはあるだろう。

誰もがほとんどミスと言えるミスも無いまま打ち進めても理不尽に決着する。それを決めているのが何かといえばランダム要素という神だけなのだ。

 

ランダム要素は人類にコントロールすることはできない。実力など及ばないブラックホール特異点みたいなものだ。存在を知っていても解明できない。

ランダム要素は人類のことなど気にも留めていない。「無」なのだ。それに対して感情的になって一喜一憂する必要などない。

「対戦相手との勝負」だと思っているから感情的になる。麻雀とは3~4人でランダム要素という「無」を相手にクジ引きをしているだけなのだ。

 

 

 

 

麻雀にスーパープレイは無い話

まぁ、これを言うとスポーツでも何でもスーパープレイって基本的には無いものと考えるんですよね。

無いものとしてプレーした結果、結果として「スーパープレイになった」はあるんですよ。

今回この記事を書こうと思ったのは「麻雀でスーパープレイをしようとしている人って実は多いな?」と思ったのです。

 

以前書いた「基本や定石を無視して打とうとする人」みたいに、「なんかスーパープレイでどうにかしてやろう」みたいに考える人は他の競技でもたくさんいます。

これは心理的に「楽をしよう」と考えているからです。

基本に則ってじっくりとプレイするのは実は結構大変で、プレッシャーもかかるし、ひとつひとつ地道に積み上げるような「作業」です。「それが嫌なんだ」「面白くないんだよ!」と型を破ってしまう人が少なくない。

 

でも基本っていうのは基本的に無視してはいけないんです。(進次郎構文か?)

 

現代麻雀ってどういうゲームでしょうか?

「確率を追うゲーム」という側面が強いと思います。

では『基本』という言葉の意味は?

「あまり道を外さない定石」ですよね。

つまり、なるべく確率の高い、ハズレの少ないことが「基本」なんです。

 

これほど麻雀のゲーム性に則った法則は無いわけです。じゃあ、なぜそれを無視する打ち方になるんですか?

地味だし、つまんないし、同じことの繰り返しだし。

ド派手にバーンとデカイ手をアガって「うひょーー!」ってやりたいですよね、ジッサイ楽しい。

 

では、確率60%の当たりを捨てて、確率5%の大当たりを引きに行く理由はなんですか?

点数が無いから?ラスになる恐れがないから?トップを取りたいから?そっちのほうが面白いから?

おお、人は欲に目がくらむ。

 

スポーツでもなんでもスーパープレイをする名手というのはいます。

では例えばイチローが守備でスーパープレイをする代わりに、平凡なプレーを取りこぼしてミスを連発しますか?いいえ、しませんね?むしろすべて完璧に近いプレーをしますね?

そして、その数多くある完璧に近いプレーの中のごく一部が、たまたまスーパープレイになるだけなんです。

 

「スーパープレイを狙ってやっている人」は、平凡なプレーをほぼ完ぺきにこなしていますか?

それとも、スーパープレイのために平凡なプレイを捨てていますか? 

それでは勝てません。

 

もし、段位で勝ちたいというのであれば、これはいけません。

まずは平凡なプレイを確実にこなしてください。そしてそれを千回繰り返そうとも「飽きた」とか「面倒くさい」なんて思わないでください。

そうしていたら、いずれたまに「スーパープレイのチャンス」が巡ってきます。チャレンジするのはそのときで良いのです。平凡なプレーを捨てて、スーパープレイを狙いに行く必要はありません。

 

「勝率を落としてでも魅せるプレーがしたい」という人は平凡なプレーを捨てるスタイルでも構いません。

でも負けるのが嫌なら地味で面白みのない基本を疎かにする理由はありません。

息をするが如く、当たり前にこなしてください。

 

天才のプレイは鮮やかです。スーパープレイは繰り返し動画でも再生されます。

でもその他には地味で完璧なプレーが動画にもされず、話題にも取り上げられず、人々の記憶にも残らず何千、何万回と存在しているのです。

 

そしてもうひとつ、そんなプレイヤー達にとってスーパープレイとは一種の博打だといえます。基本を繰り返していれば勝てるところから外れたときに、リスクをとって狙わざるを得なくなる博打です。

野球で言えばダイビングキャッチ。通常の守備体勢では届かないからジャンプやダイビングをしてキャッチを狙いに行く。そのリスクとして捕球できなければ後ろに逸らす可能性も高まるわけです。

もし点差などに余裕があればワンバウンドさせてでもシングルヒットにするほうが良いでしょう。でもそれすらも許されない、落としたらランナーが帰ってサヨナラ、などであれば捕球するしかないという状況に追い込まれている。

 

麻雀で言えば「オーラスで役満を狙わないと勝てない」とでもいうような、ある種追い込まれた状況でもあります。(余裕からの魅せプレイってこともあるが)

無茶でもやらなければ負けてしまう。それほどまでに追い込まれて初めて定石を無視した際どいプレーを選択する。

だからこそヒリつくし、決めたときの湧きも凄い。

 

普段から平凡なプレーを捨てて、スーパープレイだけ狙っている人が決めたときですか?

・・・なんも。そもそも必要じゃない場面でやられても別に・・・ねぇ?

「だから何?なんでわざわざそんなことしたの?もっとちゃんと(確率の高い)プレーして」ってなっちゃいますよ。