麻雀は運ゲーという話

■はじめに

「麻雀は運で結果が決定されるゲーム」と言えば、「実力だって関係がある」と反論に遭うことは間違いない。

「麻雀は運で結果が左右されるゲーム」くらいに言っておけば反論もそこまで来ないだろう。少なくとも運の要素がゲームに関わってくることはプレイヤーなら承知している。そこを完全に否定することもまた麻雀という遊戯において理解度が低いといえる。

しかし、完全に運によって結果が決まると言えばそこを否定する人は尽きない。もちろん実力が結果に影響する運ゲーという前提になるが、それがどういうことなのか。麻雀の初心者から中級者向けにトピックを書いてみたい。

 

まず麻雀にはランダム要素があり、『配牌』と『ツモ』の2つが挙げられる。最初に配られる配牌がバラバラかある程度は揃っているかで局の戦略は大きく異なってくる。次にツモの良し悪しで展開が変わってくる。配牌が良くてもイーシャンテンから残り1枚が引けずに聴牌できないまま終わってしまうこともある。

 

この2つの要素はどれだけ実力を上げてもプレイヤー側が操作できない部分であるため、決して「実力で結果がすべて決まる」とは言えないのが麻雀の魅力でもあり、困った部分でもある。

麻雀は素人でもプロに勝つことは比較的に簡単である。対して将棋や囲碁であれば素人がプロに勝つことはまず不可能だろう。

 

麻雀や将棋や囲碁のプロが「相手が次に何をしてくるか予測できる」として、将棋や囲碁であれば対策を取ることは可能だが、麻雀においては「判っていても何もできない」という状況がよくある。

例えば相手の待ちが1,4sだと読んでいたとしても相手にツモられたり、他家のプレイヤーが振り込んでしまえばどうにもできない。自分が当たり牌を止めたとしても負けるときは負けるのである。

こういった例は麻雀において枚挙にいとまがない。麻雀談義において大いに盛り上がれる話題だろう。

 

■麻雀における実力の要素とは?

運とは別に麻雀における実力が出る部分とは何だろうか。
主に「牌効率」「守備」「押し引き」の3つに分類できるだろう。

 

・牌効率

「いま何が不要な牌か」「次に何をツモってくるか」という判断になる。

これができないと非効率な牌を組んでしまい最速で聴牌できず、相手に先制を取られてしまい勝率がグッと下がってしまう。

 

・守備

相手のリーチや仕掛けに対して正確にオリることができる能力。

麻雀においておそらく最も運に左右されない要素と言えるだろう。

「ツモってくる牌は自分で選べないが、切る牌は自分で選ぶことができる」というのが守備における至言。

 

・押し引き

これは中級者までだとあまり馴染みのない要素だろう。簡単にいうと攻める/攻めない、という二択判断になる。攻守のバランスをとる能力。

例えば自分が5万点のトップなのに、1万点ラス目のリーチに対して危険牌を切る必要があるのか? など。押し引きとは「正確な状況判断」と言えるだろう。

 

■実力はどこまで通用するか

先述したように麻雀は素人でもプロに勝つのは比較的に簡単である。とはいえ、素人とプロで対戦して10戦のうち、素人側が勝てるのが何回か。まず2割を下回るだろう。

つまりここにおいて実力差はハッキリと出ているのである。

しかし、これが将棋や囲碁であれば勝率は限りなく0%に近いだろう。ラッキーやまぐれは存在しない。

 

麻雀において実力差が表面化するのは長期的に対戦し続けた結果において現れるといえる。たったの1,2戦であれば素人がプロに勝つことは珍しくないが、数を重ねるほどに偶然と必然の差は開いていく。

 

となると、「麻雀が運ゲーというのは否定されるじゃないか」「実力がちゃんと出るゲームじゃないか」といえるのだが、お察しのとおりこれは素人vsプロの場合の話である。

プロ同士、あるいは素人同士ならどうなるか。「実力が近いほど結果は運によって決まっている」と言っても過言ではない。

 

仮に誰かのクローン人間が4体いたとして、その4人を麻雀で対戦させたらどうなるか? 勝敗は必ずつく。引き分けは無いし、長期でみても平均的な結果にはならない。

それは何故か。

もともと結果がランダムなのが麻雀だからである。

 

これはAIでも実証できるが、人間でも似たような試みは行われている。ネット麻雀で同じランク帯(実力帯)の人間を1000人ほど集めて長期的に打たせてみると必ず負けが込む者と勝ちが訪れる者の偏りが生まれたという。

4人がミス無く打ち続けたとしても、座った席に与えられる配牌とツモ次第で結果は変わってくるのだ。こういった前提においては実力が勝敗を分けているとは言い難く、時間をかけただけのクジ引きみたいなものだといえる。

もちろんこれは非常に大雑把な話にすぎない。卓上ではさらに繊細な駆け引きが行われているのだから。しかしプロが素人に負けるように、判っていてもどうしようもない一方的な展開が多分にある。

 

「実力で勝った」と思っていても実は「ただ運が良かっただけ」という展開も大いにある。牌譜を見ると紙一重どころか首の皮一枚でただ偶然に助かっていることは多い。

そういった実態を踏まえているからこそプロは謙虚になっていくのだろう。何もかも「自分の実力によるものだ!」「負けたお前が弱いんだ!」と豪語してしまえば後から恥をかくことは目に見えている。

 

オーラスで大物手をアガって自分が勝ったとして、対戦相手を何もできなかったと罵ったとして、実は残り3人は自分よりも先に聴牌していてダマでアガり牌が出て決着するのを待っていただけだった。自分はそれを知らずに無筋をバシバシ切って「運よく」「たまたま」3人の当たり牌を掴まないまま逆転したのを知らずに威張っていたら…いい笑いものだろう。

3人が聴牌した気配を察して、そのうえで勝負にいって勝った。というのなら「俺の勝ちだ」と言ってもマシだろうが、知らずにまるで自分が強いように振舞うのは滑稽でしかない。

 

■運を前提にした打ち方

前述した3つの要素「牌効率、守備、押し引き」を踏まえても麻雀とは運による部分が多い。では運に任せる部分とはどういうところだろうか?

 

親がドラの東をポンして11600点以上なのは見えている状況。

自分はリーチすれば役アリで12000点が確定している手牌。

さらに細かい場況は必要だが、大まかにはリーチしていい状況だといえる。

 

自分が親に放銃して-11600点になる可能性はあるが、自分がアガって+12000点になる可能性もある。殴り合うには十分に互角であるといえる。そして何度も言っているように麻雀とは結果がランダムなものだ。

親が東ドラポンしたからといって必ず勝つゲームではない。条件次第でぶつけてしまえばこちらが勝つことも十分にある。どちらが勝つかは誰にも判らないゲームなのである。

 

こういった状況は他にも多々ある。

相手が副露(鳴きを入れている状態)だと、リーチ宣言と違って聴牌しているかどうかは不明である。手出しの牌や河で読むこともできるが「必ず聴牌している」とは言い切れない。また逆に「聴牌していない」とも言い切れない。

読みの精度を上げることでおおよそパーセンテージ化することはできるが、何とも言い切れないことは多い。

そうであれば自分の手が高い打点のときは勝負を仕掛ける理由は充分にある。

 

こうなったときに強い/弱いという要素はあまり存在しなくなる。それが「運」というものである。3面待ちで残り牌が7枚あるとしても、残り1枚だけのペンチャン待ちに負けることもあり得ないことはない。

もちろん確率の上では7枚残りのほうが「強い」のだが、別に1枚待ちの「弱い」待ちとパワー勝負をしてツモる牌を決めているわけでもない。1枚待ちでも先にツモってしまえば勝てるのだ。

 

ここが純粋な力による勝負とは大きく異なる部分と言える。

例えば格闘技の試合で殴り合ったらパワーや技術のあるほうが勝つのは当たり前。スポーツであれば身体が大きかったり、反射速度に優れているほうが有利で絶対に覆せない壁が存在する。
だが卓上遊戯や電子ゲームにおいてはそういった概念は存在しない部分がある。麻雀であればどんな状態であれ、聴牌して先に当たりを引いたほうが勝つだけだ。満貫は2000点よりも強いのでロンを無効にできる、などというルールは存在しない。どちらが先にアガってもいいのだ。あとは確率次第とはいえランダムな結果に委ねられる。

だからこそ素人でもプロに勝つことができるのだ。

 

■ラッキーパンチは存在しない

『はじめの一歩』というボクシング漫画で登場する台詞である。

「あんなのマグレだ、実力じゃない!相手の運が良かっただけだ!」と宮田一郎というキャラクターが愚痴を言う。

しかし、そのラッキーパンチで敗れたとする父が否定する。

「ボクシングにおいてラッキーパンチなどというものは存在しない」。息子の宮田一郎はショックを受ける。当てずっぽうの振り回しただけの手が当たったことがラッキーパンチでなくて何なのだ、と。

(※実際に対戦相手のランディボーイの戦闘スタイルについては両利きであるなど父のカウンターが敗れた理由が後々明らかにされる)

 

作者の森川ジョージ氏も麻雀好きで最強戦などAbemaTVの放送対局にゲストで登場している。実力も確かなものだ。そのせいか作中のボクシングの駆け引きやボクサーの心情に麻雀とも思える対戦心理が伺える。

ラッキーパンチについての下りもその部分である。

 

他にも伊賀忍というキャラクターが「はー、ラッキーだねえ。運が良かっただけじゃねえか」と観戦していた試合の結果に嫌味を言うシーンがある。こんな台詞は麻雀で負けたときにも言いたくなってしまうものである。

しかし、これらは作中で否定されている。

「そもそもまず手を出さなければ(挑戦しなければ)ラッキーもまぐれも起きない」「そして相手を倒せるパンチは修練と意志が無くては生み出せない」という二点から否定されている。

麻雀で考えてみよう。

 

親のリーチが入って自分はイーシャンテン。一枚押せば聴牌を取って逆転のチャンスも生まれるが、振り込んでラスで終わってしまう可能性もある。非常に危険な状態で勝負に出て、結果は勝ったとしよう。

勝ったこと自体は「運が良かった」としても、勝負にいく判断や逆転のための手作りは運ではなく実力と言っていいだろう。

天鳳や雀魂のようなラス回避麻雀であれば4着以外でこういった行動に出る理由は無いのだが……)

 

ただ麻雀の場合は常に戦闘状態をとれるかが自身で決められるわけではないのが辛いところでもある。オーラス逆転には跳満が必要なのに自身の手牌はどう見ても2000点がいいところ…それを跳満に変える手段などありはしない。

「戦術を決めるのは人間ではなく、戦場である」という言葉がある。大戦であれば人間がコントロールできることはなくなり、何でも思い通りにいくわけではない。戦場で起きたことに対処するのが現実という意味だと捉えている。

自身の手が2000点しかないのであれば他にできることを探すしかない。誰かの振り込みを期待するか、(アガリやめ無しのルールで)親の連荘で継続期待か。勝手にガチャガチャと手牌を崩してハイやり直し、今の無し。というわけにはいかない。

 

■バクチの本質

「ただ勝った負けたをして その結果無意味に人が死んだり不具になったりする・・・そっちの方が望ましい その方が・・・バクチの本質であるところの・・・理不尽な死 その淵に近づける・・・!」

 

アカギという漫画の台詞。ギャンブル漫画で麻雀も登場する有名作。

 

ここでは負けたときについて考えてみよう。

前段では挑戦し、結果ラッキーでも勝った視点で書いたが、負けることもある。

実力を出し切って、正しい選択したのに、敗れた。

これを理不尽といわずして何と言うか。

 

ハッキリ言ってこれが度重なると大抵のプレイヤーは嫌気がさしてゲームをやめてしまうだろう。何が面白くて理不尽に負けるゲームを続けなければいけないのか。自分は正しい選択をしたのに、それ以外の神か何かよって勝敗が勝手に決められ、自分は勝負に関与できないまま負けるのを眺めさせられているだけ。実力なんて関係ない、クソ以外の何でもない。だったら面倒くさい勝負なんてせずにサイコロを振って勝敗を決めたらどうだ?と思ってしまう。

 

先述したスポーツや格闘技であれば身体能力の限界以外はトレーニングや練習不足と考えることもできる。しかし麻雀の理不尽な負けはそんなものを超越していることもある。プロが同じ席で打っていても負けていただろうという展開は普通にある。そして実際にプロも負ける。

 

ApexやPUBGといったいわゆるバトルロワイヤル形式のFPSゲームもランダム性があり、射撃精度や反射速度があれば必ず勝てるわけではない。最終的な手持ちの装備、地形、ポジションによって勝敗は大きく左右される。

もちろん事前に戦況が有利になるよう、不利にならないように立ち回るのだが、それでもどうにもならないときは訪れる。

 

その反面で理不尽な状態から勝ったときの刺激も大きくなる。「適度な」ストレスは解放感や達成感を生む要素となる。パチスロなどギャンブル依存の研究では負けたときのほうが興奮状態にある、刺激を受けているとするレポートもある。

頻度や割合の問題で理不尽さが上回ると感じたときに人はやる気を失う。アカギのように理不尽の深淵に近づくことを望む人間は稀だろう。

 

プロは負けたときに「ただ運が悪かったで片付けてちゃ成長しないよね」と反省点やできることがなかったかを探る。それは対局の品質を間違いなく向上させているだろう。しかし傍目にも「いやもう運が悪いとしか言えないし誰が見ても最善の手を選んでいた」ということもあるので深く考えすぎることもメンタルには良くないだろう。

 

■麻雀は4人(3人)でやるもの

「お前ひとりで麻雀やってんじゃねえんだぞ」

渋川難波プロが過去に指摘された一言。他にも多くの人が言われたであろうこの言葉。

(戦術的な意味もあるだろうが……)

 

勝ってはしゃげば負けた3人に悪いし、負けてヘソを曲げれば勝った人間が申し訳なくなる。勝って謙虚に、負けても爽やかに。そうして勝者を称えられるようになって礼節というものが身についていくのだろう。

「お見事なのじゃ!」…俺には無理。

 

「テメエが勝ったのなんてしょせん運だろうが!!」なんて思っても、言ったとしても、最終的には自分が勝ったときにも「あー、ただ運が良かっただけだわ」と言われるし、自分でもそうとしか思えなくなって無感動になる。他者からの賞賛も形骸化する。

達成感も何もない。

ただ手順通りに手牌を切って、リーチや押し引きをして、点棒を授受し、運で結果が決まるだけの作業ゲー。下振れの時期を過ごして、ひたすら上振れを引くまで同じことを繰り返す。自分はその結果に関与できない。ただのランダムゲー。

結果が悪ければイライラして同卓者との不仲形成ゲー。

だからこそ私憤を抑えて、他者の存在を尊重しなければならない。

 

■競技形式によって運ゲー度合いは変化する

3人/4人、東風/半荘、これらで実際にゲームの運ゲー度合いは変化する。並べると以下のようになるだろう。

3人 東風 > 3人 半荘 > 4人 東風 >4人 半荘

長期戦のほうが運による偏りが減るため東風よりも半荘のほうが偏りが生じにくい。

3人麻雀は4人打ちと比較しても一方的な展開になりやすい。

 

3人麻雀の東風戦は最も運要素が高まるといえるだろう。

渋川難波は「3人麻雀はねぇ…、何とかなりやすいんですよ。だから強いと勘違いして色々と言う人が出やすい」と指摘している。そうこれを書いている私です。

 

「3人麻雀は一方的な展開になりやすい」と書いたが、「凌げない」というわけではない。4人麻雀よりも牌が少ないため読みが的確になりやすく、当たり牌を避けてオリ続けることも無理な話ではない。

そういう面では守備という最も運が関与しにくい部分で実力が出やすいゲームでもある。ゆえに「洗練されたゲーム」と評する声もある。

また親番さえ残っていればどれだけビハインドの点数でも逆転の目はかなり残る。

良くも悪くも「判っていてもどうにもならない」という一方的な展開になりやすいのが3人麻雀といえる。理不尽の本懐である。

 

東風戦は打点が小さくてもアガりを逃さないこと、逆に守備では小さくても失点をしないことが勝利へと繋がりやすい。緊張感のあるゲーム展開といえるが、運が向かなければ何もできないままあっという間にゲームが終わってしまうことも多い。

得手不得手はあるが基本的に実力者ほど東風戦は避ける傾向にある。それだけ運によって勝敗を決められてしまう展開が多いということである。

 

他にも一発ウラ赤無しといった競技ルールも存在する。だがそういった大会でも必ずしも強者が勝っていると言えないのが麻雀が競技足りえない理由でもある。

将棋や囲碁やスポーツの世界ではリーグ戦の結果は強者が上位に食い込み、タイトルホルダーは頂点に君臨し続ける。しかしそれは実力の表れであり、それに異議を唱える者は少ない。

 

対して麻雀において「誰が強いか?」というのは非常にわかりにくい。超長期的に見たとしても結果は運によって偏るところが大きいので、勝っても負けても実力というものを測りにくい。

タイトルホルダーは毎年入れ替わる。将棋や格闘技のようにその世代の王者が連覇するといったことはまず無い。

 

AbemaTV主催のMリーグのコメント欄でも「この人は去年はべらぼうに強かったのに今年は全然だな」「見るからに打牌にミスがあるのに何故か勝ってる」というのを目にする。

「競技」というにはあまりにも不安定するぎるため、「エンターテイメント」としての側面を強く打ち出す方針になっていると思われる。

 

Mリーグ自体も1シーズンの戦いは「長期的な成績」というにはあまりにも短い。

出場者の園田賢も自らの牌譜検討で度々「100戦、200戦で不調が続くこともある。Mリーグで一人あたり25戦とかじゃ下振れてるだけのことも全然あるからね」といった旨の発言をしている。

 

そういった遊戯だからこそ、好きな戦術スタイルの選手を応援したり、チームカラーの好みで推していくという観戦がいいのだろう。

レギュラーシーズンでは毎回上位の戦績なのにファイナルステージでは全く勝てないアベマズが弱いのか強いのか、誰にもはっきりとは言えない。

 

■同じことをしたうえで勝敗は運によって決まってくる

プロでもアマチュアでも対戦相手は勝つために必要なことをやっている。または負けないために危険から遠ざかる手段をとっている。1/4人でもなく、3/4人でもなく、4/4人がそれを行ってゲームが成立し、否応なく勝敗が分かれる。

 

自分が勝ったときに相手が勝つために必要なことをしなかったわけではない。残り3人がベスト尽くしたうえで、たまたま自分が運よく勝てたというだけのこと。もちろん何かしら実力が勝敗を左右した場面もあるだろう。しかしそれでも「先にアガって勝った」というのは運以外の何ものでもない。

 

もし何かのカードゲームのように見えている山札から自分で選んで手牌を完成させているのなら、山から見えている好きな牌を選んで取ってきているのなら自分の実力といえるが、そんなことはない。

見えない、何が来るか判らないものを掴んでいる。

そこに実力など関与しようがないのである。枚数が多いとか確率が高いとか受けが広いといった準備は必要でも、そこに収まってくれるかは運なのである。

 

一生懸命やったのに結果が伴わないのは理不尽だろう。しかも完全な実力のせいではなくランダムな運要素のせいで負ける。そこはそれ、実力と運は別なのだと考えてベストを尽くした同卓者に敬意を払うことが大切なのである。

麻雀とは抽選を受けるまでが実力のゲームともいえる。あとの結果は誰にもわからないのだ。

 

■オカルト論と運

ここまでしつこく繰り返してきたように運要素はランダムで法則性など絶対に見い出せない。しかし!だからこそオカルトと相性が良い!

いわゆる悪魔の証明というものだが、絶対に証明できないものを「無い」とは言い切れないのが厄介なところ。

 

Mリーガーが勝てないと「神社にお祓いに行きました」とか「イクラを食べました」というコメントをすることがある。元解説者の渋川難波いわく「そんなものはネタです。本気で言ってる人はいません」ということ。

それはそう。それで勝率が上がるのなら全チームで必ず対策しなければならない超重要事項となっているはず。

実際に効果があるとしたらお参り観光で気分転換したことでリフレッシュして良い内容の麻雀が打てたとか、そういう心理的な部分に作用した可能性があるかな…というくらい。

 

ネット麻雀だと「打つ端末を変える」とか「使用しているキャラクターを変更する」などなど、まことしやかに囁かれているオカルト技法が存在する。

とはいえ、実際に本気で信じている人がいるわけでもなく、やはり気分転換と思っている人が多いだろう。

 

ちなみに「この時間は勝ちやすい」「この曜日は負けやすい」というのはオンラインゲームではある程度、効果が実証されている。FPS格闘ゲームでも平日の13-15時は主婦など、16-19時は学生が多くなる。余暇を過ごすために気軽にプレイしているライト層が少なくない。

21-24時付近は配信者などプロゲーマーも含めてマッチングしやすくなるため激戦区といえる。社会人が帰宅して過ごす時間帯でもあるため、人は増えるが猛者も増える。

麻雀であれば、土日は社会人プロがまとめた時間で鬼打ちしていることもある。世の麻雀が大好きなお父さん方も参加してくるため、平日よりも強い人が集まりやすいだろう。

(世界的なゲームだと北米時間などが影響することもある)

 

■技術論とオカルトと運

麻雀はランダムな要素が含まれるため嘘をついても、何となくそれっぽく聞こえてしまう。そうこの記事とか。

運はどうやっても解明できない。サイコロの目で次に何が出るかを人類が完全に当てられる日は来るのだろうか。今のところ人類はそこまで到達していない。

 

「早いリーチは1,4s」というオカルトがある。もちろんそんなことあるわけがない。だが、そう言われて実際にそれを経験すると「やっぱり1,4sなんだ」と記憶に強く紐付けられて、例え他の待ちが同様にあっても1,4sのほうが記憶に残ってしまう。

「確証バイアス」と呼ばれる現象である。

 

いわゆる雀荘の麻雀大好きなオヤジさん達が語っていた「ウラ筋は危ない」とか「カンチャン、ペンチャン待ちはアガれない」といったそれっぽい技術論は、現代では統計学によって覆されている。

しかし都市伝説のように繰り返し語られることで、人々の記憶に紐付けられて「そうかな…そうかも…」となってしまうのである。

 

ランダム性が高い麻雀では、将棋や囲碁の定石のように同様の手順を踏んでも「必ずそうなる」わけではない。プロが統計通りに行動しても結果を得られず、オカルト打法の麻雀のほうが勝ってしまうこともある。

そこで声高に「ほら見なさい。オカルト打法は正しいのです」と言えば何人かは騙せるかもしれない。もはや詐欺じゃん。

 

守備の技術に「4枚壁」という考え方がある。放送対局の実況解説では「ワンチャンス・ノーチャンス」などと言われているものだ。

例えば河に3pが四枚見えている。リーチ者は4pを切っており、自分は1pを暗刻で持っている。この1pがロンされる確率はかなり低い。

まず3pが無いことが判っているので、23pの1-4p待ちという形は作れない。仮に3枚見えでワンチャンスあるとしてもリーチ者は4pを切っているので1-4pであればフリテンでロン上がりはできない。

そして自分で3枚持ちの1pは単騎待ちか国士無双の2つにしか当たらない。通常であればまず当たらない牌だといえる。

 

これは理論で確証された方法で「早いリーチは1,4s」のようなオカルトとは別物である。1pが当たる可能性は0%ではないが、限りなく0%に近いと考えることができる。

 

■麻雀に関する数字

麻雀は四人でランダムな結果を得るゲームであるため、1~4位の着順率を平均化すると理論上は25%になる。勝ち越せるトッププレイヤー達が出す戦績は「トップ率30%」「ラス率20%」が基準となる。つまり5%しか上回らないのである。

この5%が麻雀において実力が現れる部分と言われる。だが、あまりにも微差でしかないため実感できることはほぼ無いだろう。しかも運による爆勝ちのほうが圧倒的に印象に残りやすいうえ、大会や王位戦など短期決戦で5%の実力差が現れるということは無い。

 

「科学する麻雀」という統計学を応用した書籍にある数値を参考に割り出された「麻雀における運と実力の比率」は「運 76:24 実力」とされている。体感でも3:7や2:8と言われるので現実的な範囲だろう。

 

和了率と放銃率は、差し引いて和了率が10%上回れば良いとされている。

和了率22%、放銃率12%であれば、差し引きで和了率が10%で上回るので良し。

和了率24%、放銃率17%であれば、差し引きで和了率が7%で下回るので微妙。

和了率24%、放銃率10%などは超強者。

 

麻雀はどんなトッププレイヤーでも20%負けるゲームという前提を覚えておく必要がある。つまり平均5回に1回は必ず負けるゲームなのだ。麻雀は負けるのが前提のゲームだということは必ず覚えておく必要がある。(大事なことなので二回言う)

 

■おわりに

つらつらと書いてきたが自分はどうも最近この麻雀というゲームに行き詰っている。まだやり込めば強くなれる部分はあるだろう。特殊な形に強くなったり、レアケースに対応できるようになったり。しかし、それらを埋めてまたひとつ階段を昇ったとして、同じ段階の強者たちと運比べをするマッチングに放り込まれる。

 

これはオンラインゲームのランクマッチ全体に言えることだが「どれだけ上手くなっても同じ実力の相手としか戦わない」という点にひとつ問題を感じてきた。その仕組み自体は狙い通りだろう。初心者狩りなどがなくなって同じ実力の者たちでしのぎを削る。

対戦の概念においてそれは間違っていない。

 

しかし麻雀で同じ実力帯のランクマッチをしても結果は運に大きく左右される。

麻雀は運によって勝敗が決まる割合が大きすぎるゲームだと感じ始めている。素人でもプロに勝てる現象が起きるレベルだ。

それは果たしてFPS格闘ゲームで実力で勝負することと同じなのだろうか? そういった疑問が浮かんできてしまう。先述したように他のゲームでも運が勝敗を左右する要素は含まれている。しかしそれを毎回ストレスに感じるほどではない。

アカギのように「理不尽に身を委ねる」ものでなければ生きていけない世界なのか。

 

そんなことを言っていても自分が勝っているときには何も気にしないのだから所詮その程度なのだが…。

2022.12.19

 

■蛇足

今日、2022年のサッカーW杯の決勝があった。

決勝も点の取り合いから延長の末にPK戦という素晴らしい試合だった。

日本も決勝トーナメントでクロアチアPK戦の末に敗れている。そこで「PK戦は運だから、実力なんて関係ない」という声をネット上でも多く見た。

 

普段から麻雀をやっている自分からしたら、この意見にはおおいに反論の余地があった。「運に任せる部分は確かにある。でもやれることはやらなければ駄目だろう」という。

もちろん選手たちは普段からPK戦の練習もしているだろう。しかしそれでも他国のキッカー達と比べると「もっとああしていたら」「こうしていたら」と思わされる部分は少なくない。それは選手自身もきっと感じていることだろう。

 

果たして「こんなのメッシやエンバペが蹴っても止められてるよ!」と言えるほどの運ゲーだったのだろうか。いやメッシも試合中のPK止められてたけど。