麻雀のランダム性の考え方

ゴミ箱に丸めた紙屑を投げ入れるゲームをやるとする。

条件が無ければプレイヤーのコントロール次第のゲームである。

練習で成功率は上がるだろう。

 

「左から常に風が流れ込む」条件が追加されたとする。

ゴミ箱の直上に投げても風で流されて外れてしまう。

プレイヤーは風を計算に入れてゴミ箱に入るコースを模索するようになるだろう。

いずれ完璧に風に乗せてインできるようになる。

 

左から流れ込む風が「吹いたり、吹かなかったりする」ようになる条件が追加される。

だが、風の吹くタイミングは一定の法則に従っていると観測された。

いずれその法則に従って再び成功率は上がっていくだろう。

 

人間の学習性が発揮される展開である。

いわゆる「死にゲー(死んで覚えるゲーム、ダークソウルなどが有名)」と同じであるが、繰り返し挑むことでパターンを覚えて攻略できるようになるものだ。

この手のゲームは本当に繰り返し戦うほど負けが減っていく。最初は「まぐれ勝ち」だったとしても、徐々に勝つことのほうが増え、負けることは無くなっていく。

 

ダークソウルに関して言えば敵の行動パターンにランダム性はあるものの、それはプレイヤーの学習次第でどんどん対応できるようになっていく。パターンの幅に限りがあることも条件のひとつと言える。(娯楽としてのバランスが良い)

 

ゴミ箱のゲームに戻ろう。

左から流れ込む風が不規則に「吹いたり、吹かなかったりする」ようになる条件が追加される。

これがランダム性である。こうなると「明確な正解」は存在しなくなる。

練習ではどうにもならない。ここで登場するのが統計になる。

 

ゴミを一万回投げて観測した結果、風が吹くのは3000回で、風が吹かないのは7000回だった。ということは「風が吹かない前提」で投げたほうがインしやすいことになる。

たまに風が吹いて邪魔されるが、統計に従って投げ続けることで長期的に見ればインする確率は高くなる。

 

このあたりの条件は麻雀でいえば「単騎待ちにするか、リャンメンにするか」あたりの違いだろう。リャンメン待ちを選び続けたほうが長期的にトータルの収支は得やすくなる。

 

さらにゴミを投げ続けて観測した結果、「時刻がn時50分のときは風が吹くことが多い」という条件を発見したとしよう。

このときは風が吹くコースに投げるのが得ということになる。

完全な再現性は生まれないが、麻雀でもこのように「このときは単騎待ちのほうが得」という状況ができないわけでもない。

 

ゴミ箱のゲームにさらに「右からもランダムに風が吹き込む」条件が追加されたとする。さらに「上」「下」「前」「後」「斜め」などからも風がランダム吹き込むようになったとしよう。

 

ここまでランダムな選択肢が増えると初期のように完璧な観測は難しくなる。百万回ゴミを投げた結果、「右から風が吹き込んでくる確率がわずかに高い」と観測できたとしよう。右からの風を計算して投げ続けるが、成功率は以前よりも格段に下がる。長期的に見てもトータルでの上振れは僅かになる。

 

a. ゴミ箱に風が吹かないゲーム(練習)

b. ゴミ箱に風が吹くがパターンを暗記できるゲーム(練習、学習)

c. ゴミ箱にランダムで風が吹くゲーム(練習、学習、統計)

 

おおまかにまとめるとこのような感じになるだろう。

 

・麻雀はC系のゲーム

A系のゲームは経験値を稼いでレベルを上げていけば確実に負けることは無くなる。

B系のゲームは学習によって勝率を高めることができるようになる。結果として事故も減り、理不尽な負けは無くなっていく。その分、やり尽くしてしまうと退屈になってしまうこともあるだろう。

C系のゲームはローグライクに当てはまるだろう。ランダム性があることで飽きることはないが理不尽な展開が訪れることも往々にしてある。

 

麻雀はC系のゲームであるが、ランダム性が高すぎるゆえにストレスにもなりやすい。確実さがあまりにも無さ過ぎるゲームなのだ。

統計的に右からの風が多いので右に投げ続けるのが正解だとしても、たまたま気が向いて左に投げたらインした、といった偶然が成功してしまうのも悪いところだ。

麻雀においても「読みが当たったので正解だった」という事例も、「ただの偶然だった」ということが往々にあるのだ。

 

例えば相手が8pを出してきて、「8pの対子落としっぽいので、一旦8p単騎にしてみよう」とした結果、次順で相手が続けて8p切りして上がれたとしよう。だが、その8pは678pから、赤5pを引いたので8pと入れ替えただけだったとする。

自分の読みは「8pの対子落とし」だったが、実際は「赤5pと入れ替え」で出てきた8pだった。だが「8pでアガれた」という結果は変わらないのだ。

 

読みは外れている、相手の手順も偶然、だが結果は正解になる。

こんなチグハグが当たり前に起きているのが麻雀なのだ。

 

作り込まれたビデオゲームとは全くの別物だ。

ランダム性を組み込んだローグライク系のゲームと比較しても法則性も必勝法も見いだせない。

「右からの風を期待して百万回投げ続けると長期的にわずかにプラスになる」「条件付きでたまに違う方向に投げると良い結果になることがある」こういったものを合わせて収支ポイントを少しずつ稼いでいくゲーム性だ。

 

メチャクチャ勘の良い人がいて、ランダムに吹いてくる風の方向をドンピシャで当てて、高い成功率を収めたとする。

これは短期的な結果だけ見た場合は良い成績を残せるが、実際はメチャクチャな方法である。麻雀で言うなら「オカルト打法」になるだろう。短期的にたまたま上手くいったことに法則性があるように捉えてしまう、ただの錯覚(認知バイアス)だ。

 

だが人間にとってトータル百万回の結果として「右に投げ続けたほうが良い」というのを信じ続けるのは難しい。

ここでブレてしまうのがAIと人間の違いといえるだろう。

 

また統計とは別に、そもそも「外れても右に投げ続けるのが面白くない」という感覚も生まれる。気まぐれに左に投げてインしても、成功すること自体が楽しいのだから、外れても右に投げ続けろというのは面白くない。と反論されてしまうこともある。

 

・麻雀の成績は突き詰めるほどに体感しにくくなる

このように麻雀とは非常に高いランダム性の中で、ひとつの答えを貫き通すことで超長期的にプラスにできるようになる、というゲーム性である。しかし最終的にそれは非常に体感しにくいレベルにまで達してしまう。

 

初心者から中級者あたりまでは知識や技術で勝率の上昇を体感できる場所にいるが、それを越えてくると非常に体感しにくいレベルに到達する。

どんなものごとでも極めるほどにレベルアップする部分は少なくなる。自身の成長を感じられるうちは楽しいものだが、そういった機会は成長と共に少なくなっていく。

加えて麻雀の場合はそこにランダム要素も関わってくるため、さらに体感が遠のいてしまうのだ。または、体感を得られる状態であったとしても「ただの偶然ではないか・・・」と疑心暗鬼になってしまう。

 

ゴミ箱のゲームのように「右に投げ続ける」というシンプルさではないのも悩みの種だ。常に条件は変わる。本質的には変わらないものだとしても、表面的には毎回違う。それだけでも人間は惑わされる。

高いランダム性ゆえに、飽きの来ない複雑な状況が常に生み出されるのが麻雀の楽しさであると思う。だが成績を追い求めた場合に、それは邪悪さにもなり得る。

安定しないゲーム性は、安定した勝利を生み出すことも無いのだ。