たぶんまた同じ話の話

少し前の記事で九種九牌で良い手が流されて終わってしまう話を書いたが、続けて自分の良い手がそれよりも早い手で流されたり、逆にさらに自分よりも高い手が出てきて終わってしまう局もある。

 

結局、麻雀というのは先にアガりを掴むほうが勝ちなのであって、打点や速度や形の押し引きはあるものの、運によってそれらを上回られたら何もできないのである。

そしてどれだけ技術や知識を磨いても、その点を攻略することは決してできない。

麻雀というもののゲーム性を突き詰めるのであれば、技能や知識は些末なことであり、絶対のランダム性を配されたうえで、その場の押し引きをどうするかがゲームの本題になるといえる。

 

とはいえ、それでも手なりで打っているだけで8万点のトップになってしまうこともある。

見事な正着を引き続けて正解にたどり着いても、そのすべてが放銃になり敗けに繋がってしまうこともある。(正解を選ばないほうが助かるのも皮肉なものだ)

押し引きの点でも、やはり麻雀という遊戯の限界は「ただのランダム性」にしか行き着かないのである。選択の合否を問うても、ランダムによって選ばれた答えが常にそれ以上の結果を持ちうるのである。

 

この麻雀の高すぎるランダム性こそが競技化を阻む何よりの壁になっている。

ある一定の部分までは実力が及ぶところがあるものの、それ以上はどんな打ち手でもランダム性に翻弄されるだけになってしまう。

見事な打ち手が素人に簡単に負けてしまうこともある。プロ以上の存在が卓上には存在しているのだ。

 

・麻雀の答え

プロの配信などで手順を見ていても、様々な選択の中から見事に正解を選び抜いていく。しかし、だからといって勝てるわけではないのが麻雀だ。

プロの選択が正解率3/5だとして、5回のうち2回はハズレを引くこともあるとしよう。

だが、長い目で見ればアタリ3:2ハズレで、長期的にはアタリを引くことのほうが増える・・・というのが麻雀の仕組みである。

 

常にこれを続けることが「上手ければ長期的に成績が良くなる」という言葉の意味である。しかし、実際にはこれも「運が良ければ」の話でしかない。

すでに書いたように「正解を選んだから勝てるとは限らない」のが麻雀だ。

正解を選び続けているのにアタリ1:4ハズレになることもある。

 

あるいは正解を選び続けても、超長期的にアタリ2:2ハズレにしかならないこともあるかもしれない。

ここもやはり結局はランダム性に対して人類が確実に勝利することはできないのである。

 

パチンコやスロットのようなゲームがあるとして、それをプロ級の人間たちが打ち比べたとして、全員が同じように勝てるわけではない。

言ってしまえばソシャゲのガチャなんて「全員が公平」である。そこに実力差など無く、引けば誰だって当たりを引くことができる。

だが、引けない人は引けないし、引ける人は簡単に引いてみせる。

 

そこに「実力差がある」という人がいるだろうか。

課金する経済力はあるかもしれないが、画面をタップするだけのガチャに実力など存在しない。

麻雀というのは、そこに実力があると錯覚しやすいのが特徴だ。

 

実際に牌譜で見れば「ただ運が良かっただけ」の展開が無数にあるのが普通だ。

それを理解したうえで続けられるかが、ひとつ肝になってくる。

正解の牌を選んだ。しかし、それが当たらなかったのは、たまたま運がよかっただけにすぎなかった。正解だと思ったが本当は読み違えてまったく違う牌を安全だと思って出していた。しかしたまたま助かっていた。それが日常なのである。

 

頭を使って選択し、正解を選んだように思えてしまうのが麻雀の怖いところ。

人智はランダム性を決して超えない。

だとしても不確かな確率をアテにするしか、今のところ人類にはできないのである。

 

麻雀と将棋で脳の消費するカロリーを比較すると、麻雀はほとんど消費していないという研究もあった。

麻雀は将棋のようにどれだけ読みを使っても「わからんもんはわからん」と思考を放棄する性質もある。将棋のように絶対の正解があるゲームではないのだ。