麻雀はやっぱりギャンブルに過ぎないんだなぁ…の話

調子が伸び悩むので打ち方を変えたり、押し引きのバランスを調整してみたり。

でも結局は上手くいったり、いかなかったりの繰り返しでしかない。

それもそのはず、麻雀でシチュエーションがマッチするのは偶然でしかないからだ。

 

スジの牌を切っても通るときと通らないときがある。

リーチをしてもダマでも上がれるときは上がれるし、自摸れないときは自摸れない。

一段目に字牌を切って平気なこともあれば、三巡目に18000点をロンされることもある。

二巡目聴牌しても、直後に相手がリーチして一発ツモして終わることもある。

 

どれも「正解にも不正解にもなる」問題でしかない。たとえ統計で確率の高いほうを選び続けても、ハズレを引き続けることもあるのだ。

もちろん、そんなことを言っていたら何にもならないので数字に従うよりほかないのだが…。

25%の4択が当たったり外れたりするのは結局のところギャンブルでしかない。

麻雀は技術戦のように語られるし、そう錯覚させられるが、行き着くところは常にここだ。

 

「強いから勝てる、弱いから負ける」のではない。

「たまたま運よく勝てている、たまたま運悪く負けている」だけだ。

牌譜で後から見返せば正解などいくらでも解る。だが、卓上では常にギャンブルでしかない。

 

確実なことだけ、あるいは限りなく100%に近いものを選び続けることもできる。

だが、それでも勝てないのが麻雀でありギャンブルだ。

以前も書いたがこれは本当に泥沼で時間の無駄でしかない。

ネット麻雀はパチスロのようにお金が溶けることはないので経済的にはマシだが、時間は無駄に溶けていく。

 

積み上がるものが無いというのは、やはり振り返ったとき虚無感に駆られる。

ただただ運に翻弄されて一喜一憂することへの虚しさが募っていく。

 

映画「セブン」で図書館を訪れたサマーセット刑事がポーカーを興じる警備員たちに問いかける。

「二階の諸君!理解に苦しむよ。これだけの本があり知識を身に付けられるというのに。…君らときたら一晩中ポーカーだ…」

その後に警備員の一人が「文化の響きを」と館内放送でクラシックを流す。

 

そうだ、明日は図書館へ行こう。

きっと麻雀を打つよりも充実した一日になるはずだ…。