河に字牌6枚並ぶやつ

いわゆるクソ配牌、クソ自摸

河の一段目が全部バラバラの字牌で終わるやつ。

 

ここから聴牌して和了ってまず無理なんですよね。配牌イーシャンテンでもなければ、字牌山盛り配牌の時点で自分はオリちゃうんですが・・・。

銀の間以下だと、6手無駄にしても追いつける程度にはグダグダしていることもあるかもしれませんが、金以上なら6~8巡目には誰かしら聴牌しています。

なのに、まだ10巡目以降に危険牌を切って聴牌を目指すなんて感覚がズレているわけです。

 

そこまで行ったらもうなるべく筋の牌を切ったり、残した字牌を切って聴牌を目指すのが普通。危険牌や無筋を押すのはかなり手が入っている時だけ。

ドラ赤や手役も無いならオリてもいいくらいです。

そのくらい6巡を無駄にするというのは麻雀において不利益を被る。その時点で相当に覆せない差が生じてしまうわけです。

 

それ以外にも自分がそんなに字牌を抱えているということは、他のプレイヤーにタンヤオ牌が集まっている可能性も高い。

そこで相手の河を見ると3巡目にもう8pとかを切って、続けて2s、4mと手出ししてくる。

もう次の手出しでリーチと言われてもおかしくない。そしてその通りになる。自分はその時点でまだ5シャンテン。字牌を切っていたとしても到底無理です。

 

・麻雀は配牌と自摸次第

麻雀は常に配牌と自摸の運次第です。実力ではどうにもできません。何かしら実力で選択したと思っても、それはたまたま上手くいっただけの偶然にすぎません。人間が勘違いしているだけです。

1~4の選択肢のうち、それを選んでも正解率は25%だとしたら、どれも当たるし外れもします。それを「選択が上手くいった」というのはたまたまなんですよ。

残りの3つが来たって全くおかしくない。外さなかったのはたまたま。

 

それにしても配牌でイーシャンテンだとしても延々と字牌を切っているだけで河の一段目が終わって、先制リーチを受けて、聴牌したからと勝負したら放銃。負けるときなんて大体こんな感じの繰り返しですよね。

「なんでこれが入らん」というのが何度も続く。打っては負け、打っては負けの繰り返し。こうなると「はー、運ワリー」とため息のひとつも出るでしょう。

(でも勝ってるときに「はー、ただのラッキーだわ」と呆れる人は少ない)

 

なんで今更こんな話を繰り返しているかというと、Twitterで調べものをしているときに「最近、麻雀がだんだんと配牌と自摸を競うだけの運ゲーになってきた気がする」とボヤいている人をチラっと見たからです。

その通り!麻雀は運ゲーだよ!

配牌と自摸はどうにもできないので。リセマラ、リセマラ。

 

本当にね。実力でどうにもできないんですよ、

当たり牌だってわかってて止めてても勝手に自模られる。自分は3面チャンでリーチしても自模れない。ダマでハネマン張ってても誰も当たり牌を切らない。(気配を察してオリているでもない、たまたま切らないだけ)

それが限界。プレイヤーはそれ以上関与できない。ランダム性が主の部分が大きすぎて、プレイヤーが関わる部分なんてほんのちょっとしかない。それが麻雀なんです。

 

やっぱり他のゲームから入った人って、ある段階から麻雀に対して「理不尽ゲー」という印象を持ち始めるようで。当たり前の話で、そういうゲームなんだから、みんながそう感じるのは当然。

何十年経ってもそれを覆す理論なんて出てこない。結局は運に翻弄されるゲーム。

それに文句あるなら麻雀やらなくていいぞ!ってことなんですが、文句は言っていいよ。みんな同じこと思ってるからw