時代から消えていく話

この世に生まれ落ちてから時代と共に歩むうちに、若い頃というのはまさに若者のために世界が動いていると感じることがある。

これからのために進む学問や研究があり、科学や医療がある。より良い生活や商品が自分たちのために出されているように感じる。

実際にそれは間違いではない。これからの若者のために世は色々なものを送り出している。

 

ところが、これもある頃を過ぎればそうではなくなる。若者向けの化粧品やファッションもいつしか自分に向けたものではなくなり、歳とともにそういった対象から自分が外れていくのが判る。

歳をとるたびに、世の中がどんどんと自分に向けたものではなくなっていく感覚がある。

 

麻雀においても他の何事においても、こういった諸行無常は存在する。

私が麻雀を覚えたての頃に学んだ戦術や定石はもはや使い古されて、全盛期を過ごした頃に学んだものが使い古しの粗大ゴミみたいになっている。

そういったことに感傷的になりながらも、日々、新しい戦術や研究に手を出していかなければ本当に化石になってしまう。

 

破滅願望をもつ人間はここで「自分の時代で無くなったのなら、こんな世の中は滅んでしまえ」と自暴自棄になったりするのかもしれません。

情報のアンテナの立て方もひとつ間違えるとトレンドとは違う方向に行ってしまうこともある。

自分の知らないところで最新の戦術や研究が出回っているかもしれない。

 

年配の雀士の方でも現役の方もいれば、体力的な問題などで見なくなった方々もいます。第一線を退いて実況や解説に重きを置く方々もいます。

一方で実況や解説に呼んでもトンチンカンなことしか言わないからお払い箱になってしまった人もいます。そういった人こそ、いつまでも自分の時代が通用すると思っている人なんでしょう。

自らも老いればそうなるかもしれないと自戒もこめつつ。

 

 

戦術の移り変わりとマウントの話

このブログも自戒するところはあるのですが、戦術というのは時代と共に移り変わるものですし、特に現代では検証の結果として過去に良いとされていたものが再び覆るということもあり得ます。

特に統計や確率に基づいた戦術というのはここ十数年で登場し、発展を遂げてきた分野であって、今後も「じゃあこの状況だったらどうなの?」というのは日々研究が進んでいるわけです。

統計本が出た当時もすでに10年近く前です。さらに以前も指摘したように、それは「ネット麻雀の天鳳」を基にしたデータです。加えて今ほどそういった打ち方が浸透していない頃のネット麻雀ともいえるでしょう。

 

現代では「この状況だったらリーチを打つのが当たり前」みたいな戦術が浸透して、大勢がそれをやるにようになっています。そうなると環境のほうが変化しているのです。

そこで同じことをやり続けていれば勝てるのかと言ったら話は変わってきます。「みんながそういう風にしてくるんだったら、今はもっと打点をつけないとダメだよね」という方向に進化していくかもしれません。

となると、戦術にもトレンドというか、現環境に対応した戦術というのが生まれてきます。サッカーなどでも強いチームが出てくると、その戦術に対応したチームが出てきて、他のチームもそれを真似したりすることは歴史的にも見られます。

 

具体的に言うとFCバルセロナというチームがパスワークを巧みに駆使した、ボールの支配率を上げるサッカーで世界を圧巻しました。

その対策としてハイプレスといってボールを持っている選手にプレッシャーをかけ続けて、ボールの奪取を常に狙い続けるという戦術が浸透しました。見ているだけではボールを好き勝手に回されて勝てないからです。

これによって、後衛に重厚な守備を敷いて守るゲームから、守備もよりアグレッシブなゲームへと変化していったのです。

 

こういった変化がある時代の中で「今時あの戦術はダセーよな!」といったマウントを見ることがあります。

本来であれば戦術とは用途に見合っていれば、ダサいとか今時とかはないのです。

自分のチームがカウンターサッカーをやるのに最も適していると考えれば、守備を敷いて、前線のFWだけで点を取るサッカーをしても問題はない。相手に対して有利にとれるのであれば、そこに時代は関係がないのです。

 

ところがカードゲームやソシャゲのトレンドなどを見れば、そこには圧倒的に「いま流行りの~」というものが目につきます。

中には何も考えずに「上手い人の真似をするだけの人」も出てきます。(同じデッキを組むとか、プレイスタイルを流行りのものに変えるとか)

それ自体は間違いではないのですが、流行っているものや上級者に倣ったうえでどうなのか。その先を考えられるのが理想です。

 

「流行りの戦術やってみたけど思ったほどじゃなかったね」「自分のところには合わないかも」「いまの環境だとこっちのほうが良いかもね」「俺は気に入ったからやるわ」

こういった会話はFPSや格ゲーやバトロワ系のゲームでも、アップデートでキャラや武器の環境などが変わるたびに行われます。

同じキャラや武器を使っていれば必ず勝てるとはならないわけです。

 

食わず嫌いもよくないので「とりあえずやってみる」というのも大事ではあります。

やったうえでどうか?というのが重要です。

 

私はオカルトに関してはブログでもこき下ろしていることが多いですが、オカルトの場合は「戦術」でも「技術」でも、何でもないので。

ただの印象論とか思い込みでしかない。

だから現代戦術と一線が引かれてしかるべきだと思います。

 

オカルトは・・・エンタメ要素としてはホント優秀だと思います。

麻雀あるあるネタとか。

 

麻雀で負けて一番嫌な展開の話

負けても納得のいく一戦というものもあると思います。最後まで競っていた勝負であるとか、逆転の一手が届かなかったオーラスであるとか。あるいは自分のミスや選択違いで負けると誰のせいにもできない思いがあります。

しかし、どうしても納得のいかないラスというのがあります。いわゆる「地蔵ラス」にも通じますが、「運だけで負ける展開」です。

テンパイしても自模れずに負けるのも運次第とはいえますが、それ以前の問題。

 

相手のほうが明らかに不用意な放銃やミスが連発しているのに、いきなりポンポン混一役役ドラ3~~、みたいなラッキーなアガリを連発してラス抜けしてしまう。

それも麻雀。しかし、これを「実力ゲー」というにはあまりに理不尽です。

 

いつも言っているように、これを実力で覆せないのが麻雀です。

だから最終的には運ゲーにしかならない。

 

こちらがどれだけ正解を選んでテンパイを入れても、当たり牌を凌ぎ続けても、相手の運がそれを上回れば敗着になってしまう。

「確率に従えば長期的には~~」というのもありますが、それは結局は「運任せ」ともいえます。

同じ実力で長期的に打っていても、勝てる人もいれば、負ける人も出てきます。それが「実力の現れ」ではないのが麻雀です。

 

逆に実力で劣る人が長期的に勝ち越してしまうこともあるのが麻雀です。

一晩の雀荘でのゲームなんて実力はほぼ影響しないでしょうし、言ってしまえばリーグ戦の2,3回のゲームでだって実力が反映されるとは言い難いわけです。

競るゲームもありますが、絶対にそうなるわけではないし、運が良くて誰が打ってもトップになれるような半荘もあります。どうやってもそこを選べないのが麻雀の良し悪しで、競技化を完全に図れない原因でもあると思います。

 

 

たぶんまた同じ話の話

少し前の記事で九種九牌で良い手が流されて終わってしまう話を書いたが、続けて自分の良い手がそれよりも早い手で流されたり、逆にさらに自分よりも高い手が出てきて終わってしまう局もある。

 

結局、麻雀というのは先にアガりを掴むほうが勝ちなのであって、打点や速度や形の押し引きはあるものの、運によってそれらを上回られたら何もできないのである。

そしてどれだけ技術や知識を磨いても、その点を攻略することは決してできない。

麻雀というもののゲーム性を突き詰めるのであれば、技能や知識は些末なことであり、絶対のランダム性を配されたうえで、その場の押し引きをどうするかがゲームの本題になるといえる。

 

とはいえ、それでも手なりで打っているだけで8万点のトップになってしまうこともある。

見事な正着を引き続けて正解にたどり着いても、そのすべてが放銃になり敗けに繋がってしまうこともある。(正解を選ばないほうが助かるのも皮肉なものだ)

押し引きの点でも、やはり麻雀という遊戯の限界は「ただのランダム性」にしか行き着かないのである。選択の合否を問うても、ランダムによって選ばれた答えが常にそれ以上の結果を持ちうるのである。

 

この麻雀の高すぎるランダム性こそが競技化を阻む何よりの壁になっている。

ある一定の部分までは実力が及ぶところがあるものの、それ以上はどんな打ち手でもランダム性に翻弄されるだけになってしまう。

見事な打ち手が素人に簡単に負けてしまうこともある。プロ以上の存在が卓上には存在しているのだ。

 

・麻雀の答え

プロの配信などで手順を見ていても、様々な選択の中から見事に正解を選び抜いていく。しかし、だからといって勝てるわけではないのが麻雀だ。

プロの選択が正解率3/5だとして、5回のうち2回はハズレを引くこともあるとしよう。

だが、長い目で見ればアタリ3:2ハズレで、長期的にはアタリを引くことのほうが増える・・・というのが麻雀の仕組みである。

 

常にこれを続けることが「上手ければ長期的に成績が良くなる」という言葉の意味である。しかし、実際にはこれも「運が良ければ」の話でしかない。

すでに書いたように「正解を選んだから勝てるとは限らない」のが麻雀だ。

正解を選び続けているのにアタリ1:4ハズレになることもある。

 

あるいは正解を選び続けても、超長期的にアタリ2:2ハズレにしかならないこともあるかもしれない。

ここもやはり結局はランダム性に対して人類が確実に勝利することはできないのである。

 

パチンコやスロットのようなゲームがあるとして、それをプロ級の人間たちが打ち比べたとして、全員が同じように勝てるわけではない。

言ってしまえばソシャゲのガチャなんて「全員が公平」である。そこに実力差など無く、引けば誰だって当たりを引くことができる。

だが、引けない人は引けないし、引ける人は簡単に引いてみせる。

 

そこに「実力差がある」という人がいるだろうか。

課金する経済力はあるかもしれないが、画面をタップするだけのガチャに実力など存在しない。

麻雀というのは、そこに実力があると錯覚しやすいのが特徴だ。

 

実際に牌譜で見れば「ただ運が良かっただけ」の展開が無数にあるのが普通だ。

それを理解したうえで続けられるかが、ひとつ肝になってくる。

正解の牌を選んだ。しかし、それが当たらなかったのは、たまたま運がよかっただけにすぎなかった。正解だと思ったが本当は読み違えてまったく違う牌を安全だと思って出していた。しかしたまたま助かっていた。それが日常なのである。

 

頭を使って選択し、正解を選んだように思えてしまうのが麻雀の怖いところ。

人智はランダム性を決して超えない。

だとしても不確かな確率をアテにするしか、今のところ人類にはできないのである。

 

麻雀と将棋で脳の消費するカロリーを比較すると、麻雀はほとんど消費していないという研究もあった。

麻雀は将棋のようにどれだけ読みを使っても「わからんもんはわからん」と思考を放棄する性質もある。将棋のように絶対の正解があるゲームではないのだ。

 

 

押し引きの無い麻雀が何故うすっぺらいかの話

麻雀の本質は点数のやり取りにあって、こう来たらこうアガる。こう来たらこうかわす。というのは基本的な技術のひとつに過ぎない。

それらを駆使して点数のやり取りに凌ぎを削るのが、ひとつ麻雀の醍醐味といえる。

 

上級者の一人の「アガるだけの麻雀を打つ人はいる」という言葉が私の中で印象深いのだが、言葉通りに「アガりに向かうだけの麻雀」という意味だけではなく、これは「押し引きや点棒を計算に入れていない打ち手」という意味が含まれていることに最近ふと思い至った。

 

例えば初心者によくある「ラス確定のアガリ」など。初心者の場合は致し方ないが、中級者以上であれば「リーチツモ裏1で逆転の条件あるんだから、その手順はおかしいでしょ」くらいは気づいてもらいたいところ。

しかし「アガるだけの麻雀」を打つ人にそんな理屈は通じない。

南3局で自分はラス目、自分の手がバラバラなのであれば、トップ目の親に連荘してもらって次局を狙うか、他家に高い手を横移動させてラス争いに誰か引き込むのが得だろう。

だが、これを1000点ノミ手で流してサッサと南4局に局を進めてしまう打ち手もいる。

 

「アガれる手ならアガらないと」というのは他の選択肢に気づいていないのか。

もちろん他家に上がられるくらいなら自分が1000点で流したほうが得な場合もある。

しかし、そういった考えや場況でもなく、ただ「アガれるからアガる」というだけの打ち手が多くいる。

 

基本的に誰かのアガりは他の三人の損になるが、上三人が3万点持ち、ラス目が4000点しかない状況で、ラス目が1000点のアガりで終盤の局消化を計ったら、ほかの三人からは「ラッキー」と思われてしまうかもしれない。

8000点や12000点をツモあがりされたら「うわぁ面倒なことになった」と思われるかもしれないが、ラス目がラスのまま半荘が終わりに向かうのであれば、ラス回避麻雀では喜ばれることだろう。

しかしやはりアガりに向かうだけの打ち手にそんなことは関係ないのだ・・・。

 

他の三人にとって喜ばしくないこともある。3万点持ちで競っているときに「親番で突き放してやろうと思ったのにラス目に1000点で流された」となれば、ラス目のプレイヤーには関係ないものの、トップを狙っていたプレイヤーからすればいい迷惑になる。

だからラス目は黙って見ていろ、というわけではないし、素点回復やリー棒確保や、条件を作るための1000点のアガりなら積極的に狙うべきだ。

だが、そんなことは微塵も考えていない「何にもならない1000点のアガり」をする人が少なくない、という話だ。

 

このあたりが麻雀という遊戯のひとつ境界線になるだろう。

 

親の先制リーチに無筋をバシバシ切って、自分のノミ手のアガりを目指すであるとか。ドラポンの相手に役牌や急所の牌をポイポイ流してしまう上家であるとか。トップ目なのにオーラスでリーチを打って失点から平場に戻すであるとか。ひたすら自分のアガりしか見ずに、それによってゲームにどういった影響があって、他のプレイヤーにどう関わるかをまっっったく考えないプレイヤーがいる。

そうなると麻雀というゲームの指向性は一気に下向くのである。

 

そういった打ち手でも良い手が入ればアガって勝つことはできるし、そのまま終わってしまうのも麻雀だ。そうなると「アガってるだけで勝てるじゃん」といった方向により傾倒していく。

「オリたり回したりしても面白くないし」「他家の河や手牌に注意するのは疲れる」「そこまで考えて麻雀をやりたくない」などなど、いくらでも理由は出てくるだろう。

だが、内容がどうにも安っぽくて薄っぺらい麻雀というのは勝っても負けても「なんだかなぁ・・・」という感想しかでてこない。

 

条件を作るために無理やりに押していたプレイヤーが放銃した局を牌譜で見返して、「逆転のために頑張っていたんだなぁ・・・」と思いを馳せることもあれば、「なんでこの場況でこんな手をゼンツしてるんだ」ということもある。

どれも麻雀ではあるのだが、内容というか質が伴わないこともあるのだな…と。

そう思った一日だった。

 

 

他のゲームでの運ゲーの話

古今東西ある数多のゲームにおいて「ランダム要素」「運要素」というのはエキサイティングな要素のひとつとして取り入れられていることが多いです。

有名なビデオゲーム桃太郎電鉄」もすごろくの要素をベースに、バランス調整は「麻雀をアイデアにした」と言われています。

通常のすごろくであれば盤面が進むにつれて逆転は難しくなります。前を進むプレイヤーが有利を取り、後進のプレイヤーが勝つ見込みは徐々に薄くなっていく。

 

桃鉄はそこにアイテムによる一発逆転などを設けて、最後まで何があるかわからない状態をキープしやすくなっています。

麻雀も卓上の点数は局が進むごとに積み重なりますが、最後に役満をツモって逆転することもあります。このあたりが将棋や囲碁などと違って、盤面の有利不利が簡単に覆るワンチャンスが運次第で入ってくることがある。

言うなればクイズ番組で「最後の問題は正解したら10万点です!!」というようなどんでん返しと同じです。それがあるから諦めずにゲームを続ける理由ができるともいえます。

 

しかし、地道に成果や結果を積み上げてきたプレイヤーからすれば「冗談じゃない」「ふざけるな」となってしまうのも、この手の一発逆転ゲーのあるあるです。

こういったことが度々起きるとみんな一発逆転だけを狙うようになって真面目にゲームに参加しなくなります。序盤はテキトーにプレイしても、最後に一発逆転だけ狙えばいんだとなってしまう。

だから一発逆転はあるけれど、それはそんなに毎回起きるほどじゃない、かなりの低確率にすることでギリギリのバランスが保たれる。

 

ごくまれになら役満で逆転されても「まぁ、たまにはそういうこともある。仕方がないよ」で済ませられるかもしれませんが、毎回そうなったのでは「こんなふざけたゲーム真面目にやっていられるか!」となるでしょう。

 

・それでも運ゲーは基本「ダメなもの」という扱い

ゲームバランスを保つうえで「運ゲー」というのは、プレイヤーからは基本的に忌避される傾向にあります。

通常のゲームで運ゲー要素が入ってくると「バランス調整を投げだした」と手抜きに思われます。

それはそう、ギリギリのせめぎ合いを保つのがゲームメイカーの為すべきところを「運次第でーす」なんてやってきたらバランス調整するのを放棄したと思われても仕方がない。

 

実際にそういったアップデートが入ると「あ、これ対策とかしても無駄なんでw 一定確率でどうやっても死ぬんでw 真面目にやる意味ないですwww」とか言われてしまう。

実際にそういったものの攻略では「試行回数を重ねるしかない」と結論づけされます。

 

バランス調整をしたうえで、ギリギリのせめぎ合いが運によって傾くこともあります。

だとしても運ゲーは嫌われます。

 

ボスとの戦いでギリギリで勝敗が分かれそうなときに、こちらの攻撃がクリティカルヒットして勝つこともあれば、敵側の攻撃がクリティカルヒットして全滅することもある。

あるいは敵の攻撃パターンが最後だけ激しいものになって全滅してしまう。でもそれまでは比較的に優しい攻撃パターンであったとか。

 

本来、運ゲー要素はどちらにも傾くものなのです。

 

しかし、プレイヤーの多くは自分に有利に働いたときよりも、自分に不利に働いたときのほうを印象強く記憶します。

麻雀でも簡単にアガれた12000点よりも、3巡目にロンされた12000点のほうが強く記憶に残ることでしょう。

それで自分がラッキーだったときのことは忘れて「運ゲーだ!」「クソゲーだ!」となってしまいます。

 

もちろん、特に麻雀打ちの多くはこのことに自覚的で、解ったうえで冗談として「まったくひどい運ゲーだぜ!わっはっはっは!(台パン)」としていることでしょう。

 

・ゲーム内以外の運要素

体調であるとか、通信環境であるとか、周囲の状況などなど・・・。

実際にはこういったこともゲーム上に運要素として関わってくる部分があります。

トイレに行きたくて焦った手順を踏んでしまっただとか、電車の中でスマホから打っていたらトンネルで電波が途絶えて手番が飛んでしまったとか、コップの水をこぼしてゲームどころではなくなってしまったとか。

 

ゲームに集中したいプレイヤーはそのあたりも事前に極力排除していることでしょう。

長時間ネトマをするプレイヤーはタブレットよりも有線のPCを使うことが多いと言います。集中していると4~5時間経つのもあっという間で、気が付くと電池が切れているなんてことも珍しくありません。

「残り10%です」なんて表示されても、「わかった、わかった。あとにしろ」で忘れてしまいます。そしてブラックアウト。

 

他にも直前で記事にした「ホストサーバー側の不具合で切断される」といったことも外部的な運要素になってくるでしょう。

あなたがあと一手で勝てる半荘戦の最後に、あるいは勝ったあとにでも、サービス側の通信障害が起きて勝負が無効にされてしまった。なんてこともありえるわけです。

(雀魂で実際にそのことがあったときには段位ポイントが補填された)

 

こういったことは麻雀以外でも、格ゲーやFPSでもあるあるです。

いわゆる「邪魔が入る」という状況ですね。

でも、それがお子さんや災害だったら、そっちを優先しないとゲーム廃人だぞ、と。

 

 

クソゲーの話

麻雀のことを常々「運ゲー」だと言っていますが、それはマイルドな表現で実際には「クソゲー」と言いたくなることもしばしばあります。

他のソシャゲやオンラインゲームをやっていても「クソゲーだな」と感じる瞬間は多々あります。そのほとんどは「プレイングが結果に影響しないとき」と言えるでしょう。

しかし、その内容は多岐に渡ります。例えばダンジョン探索に向けて、適正キャラクターをガチャで引いて、周回でアイテムを集めて、レベルアップしてボスに挑もうとしたら「バグで今は戦闘できません」なんてメッセージが出てきたら「クソゲー」と思うことでしょう。

 

ゲームの内容に関わること以外にもシステムやサーバー環境、そのほかにもプラットフォーム側の問題で「プレイヤーとは関係のないところで行き詰まりにさせられる」というのはストレスを感じやすいです。

某ゲーム配信でも操作に難があって正常にキャラコントロールできない問題で「プレイと関係ないところで阻害してストレスを与えてくるゲームは本当に駄目だよ」と言い切られるほど。

例えば雀魂で「隣の牌を切ってしまうバグ」があったらどうなるでしょうか?

常にそれを計算に入れて切らないといけなくなります。「3mを切るときにバグが起こりやすいから、2mにカーソルを合わせて切るといい」なんてことに注意しながらプレイするとしたら。

明らかにクソゲー度が増します。

 

麻雀本来のゲーム性や難しさは別の部分にあるわけです。「どこそこを切ったら別の牌が切られることに注意しなければいけない」なんてゲーム性は求められていないのです。

こういったことがあるとユーザーの不満は徐々に運営や開発に向かいます。しかしながら、こういったことをやらかす運営開発ほどユーザーの神経を逆撫でするのも上手いものです。

余計に火に油を注いでは炎上します。それを炎上系YouTuberあたりにネタにされて、無視すればいいのに反論したりして更にネタにされる。ここまできたら一種の才能です。

真面目にゲームをやりたいユーザーを無視して、ゲームの運営よりも炎上相手とのやり取りに必死になります。

 

ゲームをプレイしたいのに、プレイできない。プレイさせてもらえない。というのもストレスになりやすいです。

例えばゲーム機が必要だとして、SwitchやXboxやPS5を買ったとしましょう。そして必要なソフトを購入してインストールした。

ところが公式サーバーに不具合があって、アクセスできないのでゲームを始められないとしたら?

 

「ここまでやらせておいて何でプレイできないんだ!」となることでしょう。

お金を払っているのにサービスを受けられない状態です。そりゃあ怒る人も出てくるでしょう。

控えめにいって詐欺です。しかし世の中にはこういった事案も珍しくない。

課金したソシャゲが早々にメンテナンスに入ったままサービス終了なんてのも、今ではよく耳にすることです。

 

みんな娯楽のためにゲームを買ったり、ダウンロードして参加したりしているわけです。

なのにどうしてそこでストレスを与えられないといけないのか。気持ちよくプレイさせて楽しませてほしいのに、それをむしろ阻害してくる。

嫌な気持ちにさせて面白さとは無縁の環境設定や整合性のチェックで数時間を費やす。そして結果、ゲームはできない。

 

そんなクソゲーは捨てられます。ゲームの内容が難しいとか以前の問題です。

やるべきことをやっているのに対価を与えられない。そんな娯楽(未満のもの)にいつまでも付き合う人はいません。

他の建設的なことをやったほうが得だと気付きます。

 

ゲームをプレイできるかどうかは運次第です。なんて言われていつまでそのゲームに魅力を感じるか。

電源を入れてコントローラーを握ったらプレイ開始させてほしい。そこで「プレイできるかどうかは運次第」なんて求めてない。

当たり前のように思うコレが意外と提供されていない。