「選択肢がある限り被験者の98%はプログラムを受け入れた」
映画『マトリックス・リローデッド』』に登場する台詞である。
機械文明の作り上げた仮想空間の中で、それと知らずに暮らす人類であるが、最初のうちは機械の作り上げた嘘の現実を受け入れることができなかった。
ひとつ目の世界は人類にとって完全に理想的な世界。だがこれは早い段階で失敗に終わった。
完全な幸福は人類に受け入れられなかった。
ふたつ目の世界は理不尽や不幸を組み込んだ。これにより仮想空間は安定した。人類はもともと完全さを望んでいなかったと分析できた。
しかしこの段階で避けられないバグが発生することがわかった。
「ここが仮想空間だ」と疑う人類によってプログラムが一定期間で突破されるようになったのだ。
ロボット達はこの問題を完全に排除することを諦めて、定期的に駆除すべき問題として受け入れた。
プログラムを看破する人間が現れることを意図的にコントロールして管理するようにした。そのサイクルにおいて人類の英雄(バグの集合体)として現れるのが主人公のネオである。
ネオは何世代にもわたって転生ともいえるような異なる人格を幾人も生み出されていた。
コンピューターは異分子(アノマニー)であるネオを管理下に置いたが、その方法を思いついたのは数学者のアーキテクトではなかった。
「預言者」と呼ばれる直感を司るプログラムだった。彼女の考えた方法で人類は「選択肢がある限り理不尽なプログラムを受け入れた」とする。
前置きが長くなったが、要はコンピューターは理不尽に理不尽を重ねた世界を作ったが、選択肢を設けることで人類のほとんどは納得して仮想空間を現実として受け入れた…という流れだ。
なお「選択肢」も実のところは見せかけで、結果はコンピューター側で管理されており、人類は避けることなくリセットされる定めにある。
マトリックスという題名にもなっている世界設定が明らかになる瞬間だが、人類視点ではかなり胸糞が悪いことを聞かされるシーンでもある。
仲間が命懸けで行っていること、犠牲を伴ってここに辿り着いたこと。そのすべてが実のところ幻想で、機械たちに管理された予定通りの行動でしかなかったというのだ。
・麻雀の選択肢は現実か?
麻雀に限らずだが、人類がランダムなものに対する選択をするときに、それは果たして実際に意味のあることなのだろうか?
少なくとも現代麻雀においては統計によって、ある程度の確率は割り出されている。それに従うのが「効率のうえでは」間違いではないのだろう。
しかし「正着を選んでも正解になり得ない」のがランダムなものに対する答えである。
カードゲームのブラックジャックではバーストするかしないかの基準のひとつとして15という数字が用いられる。
カードは1〜13であり、中間はおおよそ7。バーストは22からなので、15+7はバースト。
手札が15以上のときは50%ほどでバーストすると考えられる。
これはハイ&ローでも同じことが考えられる。7を分岐に上か下かを決める基準にできる。
しかしやはりそういった理屈を踏まえても裏目を引くことは多々あるのだ。
麻雀でも同じことは言える。統計や牌効率に従ったところで幾らでも裏目を引く。
・選択肢は幻想か
統計と同じように1,000単位で積み重ねれば現実のものとなるだろう。しかしそれ以外での短期での選択は幻想である。正着を選んでも正解とはならないことがある。
だが正着を選び続けるしかないのだ。
AIのほうがこの時点で打牌にブレが生まれないため有利だろう。人類は1,000〜10,000という単位ではミスを犯すことは避けられない。
将棋のAIを検討したプロ棋士たちの言葉が忘れられない。「理解できない手もある」「いつの間にか自分が不利になっている」といった声が聞かれた。
プロ棋士たちが理解できず、局面で感知できない微差の有利をAIは見つけ出しているのである。
そして序盤から積み重ねたその微差により、中盤から終盤に完全な有利を作り出している。人類はその領域に到達できない。
もちろんAIもそれを構築、管理する人間の手腕が問われるのだが、麻雀においてもこれは最終的に完成されることだろう。
そしてそれ以上に強い人類は出てこない。
麻雀は超長期的に見ることで成績に実力差を付けることができる。一局、一半荘、という単位では表面化しない。
将棋や囲碁の終盤の結果というのは、麻雀でいえば10,000半荘の後にわかることといえる。