現代麻雀において迷彩は意味があるのか

麻雀用語における「迷彩」とは、自分の河に出す牌を調整して相手に情報を読ませにくくする手法のひとつである。

例えば筒子の染め手をやっているのに一打目に1pを打ったり、早い巡目に字牌を落とすことで、通常のピンフ形の手に思わせたりする。

あるいはわざわざリャンメンを払って2,8pと切ってカンチャンの5pを狙ったり。

 

しかしながらこういった手法は現代では使われることは無い。

特殊な状況であれば用いられるが、通常であればそれよりも牌効率のほうが重視されるようになっている。

少なくとも迷彩をすること自体が現代麻雀においては「非効率」と捉えられることが多い。実際そうだろう。

筒子の染め手の例にしても、1pや字牌が重なって雀頭にでもなったほうが手順的には圧倒的に有利なのだから、一枚だけでも持っておく利点のほうが大きい。迷彩だから、とわざわざ切り離すほどの理由にはならない。

 

こういった聴牌系は昭和の手法と受け取られることも少なくない。時代はともかく古い打法ということになる。

 

他に例を出してみよう。

468のリャンカンはどちらを切っても待ち牌のスジ引っ掛けになる。しかしこれはリャンカンという比較的に広く受けた結果の最終系であり、わざわざ引っ掛けリーチなどを狙ってこの形にしたわけではない。

またいわゆるリーチ後の「あとスジ」も引っ掛けにはなるが、意図してできることではないので単なる偶然でしかない。

 

現代における迷彩とはこの程度の偶然によるものでしかなくなっている。

もちろん先に挙げたように「特殊な状況」であれば意図的に迷彩を作ることもなくはない。

トップから直撃を取るためにあえて狭いほうの待ちに受けて引っ掛けの迷彩をするといったケースは考えられる。

しかしやはり現代においては大半は牌効率を優先した結果の「たまたま」である場合が多い。

 

・麻雀は技術<<<運だと理解された現代

過去にそういった迷彩のような回りくどい手法が重用されたのは「麻雀は技術戦である」という幻想があったのかもしれない。

しかし現代では統計によってそれが否定され、より高い確率を求めてランダムな結果を広く受けられる形を作っていくことが、より有利な結果に繋がると解されている。

 

その結果「迷彩などで河を作って無駄な手順を踏むよりも、最短の手順で聴牌して先制リーチを打ったほうが圧倒的に有利である」と知れてしまったのである。

前述したようにカンチャンやペンチャンなど愚形リーチについても同様である。

これは形にもよるが数巡かけて手代わりによるリャンメン変化を待っても、早い段階で愚形リーチをしてもアガり率に大差はないという統計である。

 

実際に序盤の愚形リーチの和了率が26%ほどとすると、中盤以降の良形リーチの和了率も28%ほどと巡目をかけても和了率自体は大差ないということになってしまう。

それであれば速い段階でリーチをかけて相手をけん制しつつ、自分に有利な状況にしてしまったほうが得だと考えるのが現代の麻雀である。

加えて愚形からの良形変化はひょっとしたら聴牌しないまま終わってしまうかもしれない。で、あれば現在ある聴牌をわざわざ崩してまでやる価値は低いということになる。

 

・現代における迷彩

このように牌効率を前提にした場合には、リーチ宣言や副露による手出しツモ切りといった情報によって迷彩が行われる。これを現代麻雀における迷彩と言っていいだろう。

 

例えば456pでチーして手出しが4pだったとする。この場合に鳴く前に手の中では446pで不要牌の4pが出たと考えられる。この4pに対する警戒度は低くなる。対して456pチーして出てきた牌が無関係の3mなどであった場合にはその周辺の牌はロンされる可能性が低くない。

 

この理論的な考え方を逆手に取ったり、紛らわせることが現代における迷彩のひとつと言えるだろう。ただやはり、ではそのためにわざわざ不要な危険牌を持っておくのかと言われたらそこまでではないと思う。

 

「効率的に打つはずだ」「わざわざ非効率的なことはしない」「打牌には意味がある」これらの現代的な裏打ちによって盲点が生じることもある。

しかし何においても非効率な打牌を繰り返せばトータルでの成績は落ちていくのだろう。