麻雀は局によって聴牌リーチに「参加できるか/できないか」という問題がある。
何もできないままツモによるマイナスだけで四着にさせられるという経験は麻雀を打っていれば少なからずあるだろう。
麻雀は「抽選に参加するまでの勝負」だと思っている。聴牌してリーチなりしてしまえば、あとはアガるか・アガられるかは運次第だ。だからこそ「参加できる」ことに意義がある。参加できずに眺めている局は何もしていないに等しい。
(1-和了率)^局数 ≒ヤキトリ率
ヤキトリ(アガれずに半荘を終えること)になる確率は8%ほどではないかと言われている。おおよそ10半荘に一回未満ということになる。
そうなるともちろん勝つことなど不可能だし、もし放銃すれば加点がないためラスになる確率は大幅に上がる。というかヤキトリなんて大体ラスだ。
配牌で九種九牌になる確率は6.5%ほどとされている。
ということは九種九牌ではなくとも「勝負にならない手牌」はもっと高い確率で訪れると仮定できる。25%なら半荘(8局と仮定して)で2回ほどと考えれば妥当だろう。
そうなると、いわゆる「勝負手」というのは6/8回あるか無いかということになる。もちろん平均的に訪れることなどないから偏りが生まれ、それが「流れ」というオカルトめいた呼び方をされることにもなる。
実際には6回のうち何回勝負手が入るか、そして和了まで辿り着けるかによってトップ率は変わってくるだろう。
・勝負手とゴミ手以外のもの
8局のうち、ゴミ手が2回、勝負手が2回として、いわゆる中間のどっちつかずの手牌が4/8入ると仮定しよう。
そう考えるとなかなかのものである。なんと半荘のうち半分はどっちとも言えない中途半端な牌を相手にすることになる。しかしまぁ、実際そんなものかなとも思う。
坊や哲の漫画に「半ツキ」と呼ばれる現象がある。
「手が悪ければ振り込みはしないが、手が良いと押して振り込んでしまう。そして手は良いのに運が悪いときは後手を踏んでやられる」というものだ。(しかしこれ現代麻雀の理論で行くと意味ないな……)
ともかく言いたいことは的を得ている。本来なら押すことのない手牌を形や打点が良いばかりに押してしまって放銃する。とくに中途半端な手牌から仕上がってしまい、ドラ1あるならリーチもいいかと押してしまう。
仮に半荘の半分がそんな展開だとすると厳しいものがある。
だが、上記の()内でもツッコミを入れているが、打点が伴うなら現代麻雀であれば押しではある。なにせリーチしてしまえばどちらがアガるかは運でしかない。
ただし、その結果放銃となる確率はゴミ手のときよりも高いだろう。なにせゴミ手のときはベタオリだけしていればいいのだから。
だからこそ中途半端な手のときほど押し引き判断が難しくなる。
勝負手は文句なしに押し、ゴミ手はベタオリ、では半端な手はどうしたものか。
押すには打点が低すぎる、形もイマイチよくない。聴牌はしたがリーチして場に見えていないドラや赤の手に振り込みたくはない。
こうなるとよくある「ツモのみ」「平和のみ」「一盃口のカンチャン待ち」の1000点のアガりになるのだろう。
・字牌が河の1/3を占める展開
河に捨て牌を6枚ずつ並べた場合に、三段で18枚が大体終局までの河になる。
そのときに河の大部分が一九字牌の使えない牌という経験はあるだろう。実際に九種九牌に近い状態から打牌し、河の1/3が使えない字牌で埋まっているとなれば、自分は1/3の聴牌チャンスを失っていることになる。
もちろん手牌にもよるが、そんなときにまともに勝負にいこうとは思えないだろう。早々に安牌を確保してオリ優先で打牌することになる。これもまた「参加できていない麻雀」といえるだろう。
ちなみに九種九牌から国士無双になる確率は2%以下らしい。九種九牌から通常の手組をしてアガりを目指しても和了率は10%未満となる。
参照: 【麻雀】ヤキトリが多い - psycholomemo
【統計麻雀】和了と流局の比率|プログラミングが出来るようになるノート|note