麻雀におけるスタイルとルーティーン

麻雀を打つときに人それぞれスタイルというものがあると思う。基本的に現代であれば牌効率に従うことが殆どだろうが、それでも字牌と数牌のどちらを残すかの二択などは好みが分かれるところだ。

今回のトピックでは仮にA,B,C,Dそれぞれ4人の打ち手がいたと仮定してみよう。以前にも似たようなトピックを書いたが、4人それぞれが別の選択をする想定だ。

 

最初にAさんが連勝していたとする。Aさんは面前派でリーチを多用するスタイル。このスタイルでガンガン勝ってトータルポイントを稼いでいたとする。

Bさんは副露派だが、イマイチ上手くアガれないことが続いた。

Cさんは手役派だが、手役を狙いすぎて裏目ってしまうことが多かった。

Dさんは役満ばかり狙っているので全くアガれる気配がない。

 

さて、こうやってみると「やはりリーチは強いなぁ」となるのだが、次の半荘からは急にBさんが勝ちだした。副露して打点も高くついてツモやロンが続き、逆にAさんはリーチしてBさんの手に振り込んでしまうことが増えた。

Aさんのプラスだったトータルポイントはすっかり無くなってしまった。

 

こうなると「副露もなかなかやるなぁ」となるのだが、次の半荘からはCさんが勝ちだした。配牌が良くツモも効いてドンドン手役が入る。ドラも重なってリーチツモ倍満や跳満が次々とアガれる。

Aさんもリーチするがアガれず、Bさんも副露を入れるが聴牌が入らない。そのままCさんがあっという間にトータルポイントでトップになってしまった。

 

こうなると「手役も馬鹿にできないなぁ」となるのだが、次の半荘でなんとDさんが親のダブル役満をツモって最終トータルトップになった。

他の三人はトビ終了で為すすべもなく敗退してしまった。

 

三匹の子豚みたいな話になってしまったが、これは麻雀においてどれも起こり得ることである。バランス型のプレイヤーであれば上記のどのスタイルでも打つことはできるだろうが、「その局ごとの正解を必ず選べる」というプレイヤーは存在しない。

リーチを打ったが副露したほうが正解だったとか、副露したが面前で手役を狙うのが正解だったとか、5面待ちにとらずに単騎待ちで役満を狙っていたら唯一アガりがあった…など。

 

裏目を引く展開は必ずある

冒頭のスタイルの話に戻ると「どちらを選択するか」で、自分の選んだほうが正解になることもあれば、不正解になることもあるのが麻雀だ。そしてそれは運でしかない。

これを「実力」と勘違いしているとひどい目に遭う。

 

Aさんはリーチをして多く勝っているので「リーチをするのが正解」だと思っている。そしてそれが自分のスタイルで実力なのだと思っている。これがまず傲慢というか幻想に過ぎないのである。

麻雀において常に結果を決めているのは麻雀側なのだ。人間が「こうしたいから結果そうなれ!」と思ってどうにかなるものではない。つまり運であって実力ではない。

(だからこそ競技性よりもエンタメ性が問われてしまうのかな…と)

 

黒沢咲のような「副露をほぼしない」といったスタイルについて、それはもはやエンタメの領域であって、実際には黒沢プロも満貫手なら副露してアガりやすい形を目指すのである。

佐々木寿人の引き算打法」「村上淳のリーチ超人」などなど異名はあるが、その場の正解を選ぶのが効率的なのであって、村上だって鳴いて跳満の手を苦しい形にしてまでリーチを狙ったりはしないのだ。

 

だが、村上はリーチを多く打つ選手である。それで勝てることもあれば負けることもある。Mリーグでもシーズン当初は多くのアガりをもたらしたが、ここ数年は下振れている。

そこで村上の打法が悪いのかといえばそんなことはない。ただ運が上下しているだけだ。他にもシーズンごとに好不調が分かれる選手は多い。

佐々木寿人もリーチを多く打ち勝ってきたが、ここ数年のMリーグではいまひとつ結果がついてきてくれない。

 

ではリーチが不正解なのかというと松ヶ瀬などはリーチでアガって打点を稼いでいるし、伊達も単騎待ちだろうと残り一枚の牌だろうとツモって勝っている。

村上や寿人が負けているのも、勝っていたのも「たまたま」だったのだ。同様にいま勝っている選手もいずれ負けが込むかもしれない。

麻雀に絶対の勝者というものは存在しないのだ。

 

・愚直な繰り返し

麻雀というのは常に正解を選ぶのが難しいゲームである。

グー、チョキ、パーのどれかがランダムで出てくる機械とゲームをして、どうやったら勝ち越せるか、などと考えるのは時間の無駄である。

 

グーを出し続けていれば偶然に勝ち越しできるかもしれないし、グーチョキパーの順番で出し続けたら勝ち越すかもしれない。あるいはその場のカンや閃きでテキトーに決めるか。

どれでも勝てるかもしれないし、負けるかもしれない。

考えるだけ無駄なのである。

 

これを麻雀のスタイル(エンタメ性)に当てはめれば判ってくる。

リーチをするのが正解とは判らなくとも、リーチ超人と名の付く以上はリーチを打つようにする。副露をしないのであれば、正解かは判らなくとも面前にこだわる。

結果は麻雀側が決めることだ。

 

その瞬間に正解を選べなかったとして「じゃあ次からはダマにするか」とやっていても埒が明かないのが運ゲーだ。自分のやりたいようにやったら良い。

リーチを打つならリーチを繰り返す。それがいつか正解になるかもしれない、この先ずっと不正解のまま麻雀人生を終えるかもしれない。だがそんなことは人間にはわからないし決定権も無いのだ。

 

もちろん麻雀においては先のジャンケンとは違って「場況」というものがある。「こっちのほうが良いな」「こっちの待ちは良くないな」と判断できる情報が転がっていることがある。

しかしそれを汲んでも裏目を引くのが麻雀だ。どうやったって人間側が決定権を持つことはできないのである。

 

場況を読んで「8p待ちだ!」と決めて見事にツモあがったとする。

今度は逆に「8p待ちだ!」と読んだが裏目ってアガり逃しをする。

この二つを「別の現象」だと思っていると危うい。

 

前者を「上手い」、後者を「下手」だと思っていると麻雀への見方そのものが怪しくなってオカルトに傾倒する。これはどちらも同じ現象で、結果が違ったのは「ただの運」でしかないのだ。

前者はあたかも「見事的中させて上がったし、麻雀が強いんだなぁ」と思わされそうだし、後者はうまぶってハズレを引いたので「ヘッタクソwww」と見えるかもしれないが、それは「たまたま」なのである。

 

他にも手出しなどで読みを使う機会は多いが「この3s切りは、233sからの両面で14sは危険だ」といったことも見事に正解なこともあれば、ただ浮いた3sを切っただけの場合もある。

麻雀は確率のゲームであるから「かもしれない運転」で安全を図ることは重要だ。

だが、読みが当たったから上手い、外れたから下手。ということはない。

どちらも同じことをして、麻雀側が下した結果がたまたま異なっただけなのだ。