オカルトは信じない雀士なんだけどの話

麻雀とちょっと関係ない話なんですが、ワクチン接種について話題にすることがあって。特に2023年8月時点で感染者数が増加の傾向にあって、自粛とか対策の義務がなくなったことでリスクが上がっている事実が数字として表れている状態。

世間的には2~3年の間に疲れきっていて、「もうマスクをするのは嫌だ」「気兼ねなく人と会って話したい」「飲み会や旅行もしたい」とメンタル的に限界がきている人達も少なくない。

その中で行動制限が解除されて、花火大会やお祭りで人が集まってパンデミックが起きて、さらにそれが通勤電車や会社内で広まって。

 

まー、自分としては改めてワクチンを打って対策したいなと思っている現状なんですが。人によっては相変わらず「風邪みたいなものらしいから」「周りの人は何ともなかったから」「ワクチンで逆に亡くなった人もいるから」と忌避する傾向にある。

それは個人としては選択の自由ではあるのですが、麻雀打ちとしては「そっちの確率には賭けられん!」となるわけですよ。

 

私たち麻雀打ちには日常だと思います。

「リャンメン待ちとカンチャン待ち、どっちだとアガれるか」

 

「俺はリャンメン待ちでアガった(カンチャン待ちだとアガれなかった)」

「私はカンチャン待ちでアガった(リャンメン待ちだとアアれなかった)」

 

どちらもある。

どちらもあり得るうえで、どちらも生存バイアスであることに変わりはない。

「自分はこっちで助かった」というのは、本人にとっては真なのです。

となると、あとは客観的に判断するには確率の問題でしかない。

 

いつも話しているやつです。

「100%打つリーチは失敗しても打つのが正解」なんです。

「俺は打たなくても助かった」「打って亡くなった人もいる」は、たまたまなんです。

「打って助かった」もたまたまではあります。

 

でも、そのふたつで違うのは「確率」。

生存率80%と、生存率40%だったら、どちらを信じたほうが得になりやすいか。

正直、どちらも当たりもハズレもします。

でも麻雀打ちなら80%のほうに賭けるのが常でしょう。(場況とかそういうのはとりあえず抜きして…)

 

自分はこれをやめられません。

他に信じるものはありません。

科学や統計以外をアテにするなら、それは麻雀でオカルトを信用するのと同じようなものです。

麻雀でギャンブルすることはあっても、それは根拠のある一手でありたい。理由があって打った一手でありたい。

負けまくってギャーギャーお気持ち表明するブログでも、そこだけは曲げてはいけないと、麻雀以外のことで思った日でした。

 

追記:

「詐欺師は人に信じてもらうために優しく接するが、医者や科学者は態度が傲慢であるために信じてもらえない」

「人は感情で動く、数字では動かない」