「これでいいのに」というWEBサイトのデザインがどんどん改悪されて使いづらくなる現象。おそらく学会では何らかの名称がすでに与えられていることだろう。どこの誰でも体験することである。
料理の味でも何でも「これでいいのに」と思っているのに変えられてしまう。客観的にそう感じても、主観的にはおそらく自覚できない現象なのだろう。
麻雀でも同じことは起きる。同じことを続けていれば期待値的にはいつか勝てるようになるはずだし、勝っているときも特に何か変える必要はなく、同じことを続けていれば勝ち続けるはずなのに、それができているかというと難しい。
麻雀は正解がないゲームだと以前にも書いたが、さらに解説してみよう。
Aさんは面前手役派
Bさんは鳴いて速攻
Cさんは打点ゼンツ
この3人で麻雀を打っても成績が偏ることはないだろう。何故かというとABCどれでも正解にもなるし、不正解にもなるのが麻雀だからだ。
A B C
〇 X X
X 〇 X
X X 〇
三局打ったとして、一局目はAさんの面前リーチが正解になった。二局目はBさんの鳴いて速攻が正解だった。三局目はCさんがゼンツして正解だった。
どれもあり得ることである。
ではここに神視点をもつDさんが現れて、一局目は手役面前、二局目は鳴いて速攻、三局目はゼンツして勝つという全勝をあげたとしよう。それは果たして人類に可能なことだろうか? もちろん不可能である。
盤面や手牌の兼ね合いで戦術を合わせることは可能でも「どれが正解だったか」について、正解を選べたというのは偶然でしかない。Dさんは神視点で未来を知っているから正解を選べたという前提だ。
例えば配牌が明らかに面前でもDさんは「これは鳴いて速攻が正解」と知っているので面前では打たない。そんなことは人類にはおよそ不可能である。
であれば人類ができることの限界と言えば「正解を引くまで同じことを繰り返す」しかないのである。その中で細かい選択があったとして、間違いがあったとしても同じことを繰り返すしかできないのである。
だが、人は「さっきは面前でアガれなかったから今度は鳴いてみるか」と考えてしまうものである。「ゼンツしてやられたから控えめにしよう」と脅えてしまう。
本来、確率というものを相手にしたときに「その都度態度を変える」ということは必要ないのである。相手は一定の確率で訪れるだけだ。そこに感情や情勢は関係ない。
ピンフドラ1の手はいつでもリーチを打たなければ収支は上がらないのだ。(押し引きを考えたら場況はあるが)
さっきアガれなかったから今度はダマにしようなどとやったところで確率に大差は生じない。
・主観と客観
他の人の麻雀をネットでも観戦する機会は多い。検討会などすることもあるが、そのときに「ちょっと消極的すぎる」「もうちょっと攻めてもいいのでは」といった意見が出る。もっともであるが、しかし自分が打っていると先ほどしたアドバイスの逆でピヨピヨと脅えた打牌をしている。
こんなことがしょっちゅうである。客観的に「これはもっと攻められるのに」「もっと攻撃的にいっていいのに」と思っても自分で打つときにはそうは思えないのである。
このようなギャップは他にも様々だが、前段に話を戻すと打牌の一貫性に関しても同じことが言える。自分ではそのつもりでも客観的に見ると全然できていないことは多い。
これをチェックするには時間を空けてからの牌譜検討や動画などを見返すのがよい。
落ち着いた状態であれば打牌判断にも差はできるが、後から見ると「いや、なんでこんな打牌してるんだ」と気づくことは多い。
ビデオチェックはスポーツのトレーニングでもお馴染みだが、動画で見返すなど自分の打牌を客観的な視点で見返す訓練は役立つだろう。
「こんなうまぶりしてないで、普通にリーチしてれば得なのに何やってんだ・・・」と思うことはしばしばである。
タイトルの「同じことを繰り返し続けられないのが人間」という考えだが、およそ何事においても変化というのは進化そのものである。変わろうとするからこそ、新しいものが生まれるのだ。
WEBサイトも変えなくていいと思っても、変えたことによって便利な面も出ているのかもしれない。あるいはその発見となるきっかけが生まれるかもしれない。挑戦しなければ新しいものは出ないのだ。
それはそれとして成果を出せているやり方を変える必要がないということもある。
それができないのが人間なんだなぁ・・・。