正気を失わない狂人の話

世のギャンブラーを見ていて滑稽に思ってしまうことは、「俺は強い」とか「自分なら勝てる」と思っているところです。

それはただの運でしかなくて、たまたま連勝や大勝が続いていたとしても、それは運が良かっただけで実力とか技術ではないのです。

しかし気が大きくなって「いやぁ、やっぱり自分が凄いから当たりを引けたんだな」なんて勘違いを起こします。

 

まぁ、それでも完全な素人より勝率が高くなることはあるでしょう。微量ながら技術介入する部分があって・・・というのも勘違いさせるための要素に過ぎない気もしますが。

完全なギャンブルだったら大半の人が「こんなのただの運じゃん」と気づくはずですが、少しでも技術介入や知識が必要だという触れ込みであれば、「いや、俺が上手いから勝ててるんだよ」「君が負けてるのはまだ実力不足なところがあるんだよ」と嘯けることでしょう。

丁半博打で有名な壺振りというサイコロ博打もフィクションなんかでは壺振りが自由に出目をコントロールできるなんて展開が描かれますが、フィクションで描かれるということは現実には無理だということです。

 

ギャンブルの面白いところは本当にただの偶然に過ぎないのに、まるで誰かが仕組んだかのような展開があることです。

「こんなこと偶然に起きるわけないだろう!」というレベルの偶然が頻発します。だから「イカサマをやってるに決まってる」とか「仕組まれたんだ」と考えるのが自然と思ってしまうほどの理不尽が生じる。

逆に上述したように偶然とは思えないほどの幸運もあるわけです。

 

世の何事もすべてが必然とはいきませんが、それにしてもギャンブルほど必然があり得ないものはありません。

パチスロで勝っているという人は短期的に運が良いだけか、長期的に勝ち続けている人はぶっちゃけ一線を越えてアレやコレや裏で手を回しています。

結局、博打で確実に勝つ方法なんてイカサマ以外に無いんです。まともに(?)考えれば。

 

だから、それ以外でギャンブルに触れるのであれば適度に娯楽として留めるのが限界と言えます。最適とかじゃなく「限界」です。

それ以上は関わっちゃいけない。まぁ好きにしてもらって結構ですが。

 

麻雀は確かに長期的に打てば、数を打ち続ければ実力差は出るジャンルかもしれません。しかし、もう一定域からは娯楽としてのコスパを超えてきます。

「実力差が出る局面は1000局に一回」とかになれば、あとはすべてが運次第で上がったり下がったりするだけ。

それを「自分の実力のせいだ」と思ってしまうのは、一般人には相当キツいです。

 

麻雀をメンタルゲーというのも頷けます。

こんなの普通の感覚でやっていたら間違いなく病みます。

勉強や仕事で他人から師事するときに「掘った穴を埋める」ような行為が続くと人間の精神は病みます。

 

頑張ってやったのに、その成果を否定されるようなことが続くと精神的に不健全なわけです。

犬の教育でも同じような現象が確認されます。正しいルーティーンで行動している犬を褒めると、犬はその行動を繰り返し行うように学習します。犬のほうも指示にこたえられたことで喜びを覚えます。

しかし、これを褒めたり叱ったりをバラバラにすると、やがて犬は言うことを聞かなくります。

 

「自分のやっていることが正しいのか、間違っているのか判断がつかなくなる」のです。

犬ですらこの学習ができるのです。一定水準の知能がある動物には本能的に備わっている機能といえるでしょう。

麻雀では「今のは放銃になったけど確率的には正しいことをした」という信念を持つのが重要だとされます。実際にそれはそうなのですが、ギャンブルではだからといって結果が必ずしも報われるとは限りません。

 

麻雀的に正しいことを100戦続けても負けて終わることもあるのです。

そこで果たして正気を保っていられるでしょうか。

というか、正気を保つのであれば他のことに興味が向くようになるでしょう。

 

ここで正気を失わない狂人か、正気を失った狂人だけがギャンブルに残ります。

正気を失ったほうの狂人は、前者の餌になり続けるだけですが・・・。