ネトマでラス回避は勝ちの話

「ラス回避は勝ち」

というのはネット麻雀をやるうえで聞かされる言葉ですが、そうは言っても2着や3着ばかりでは勝った気になれない・・・そういう人達に贈る言葉

 

「トップ2回分と同価値」

こう聞くとメチャクチャえらい気がしてきませんか?

 

三着でもトップ2回分のポイントが得なんですよ。

 

 

押し引きで考えてみましょう。

オーラスの3着目、ラス目からリーチを受けて自分はアガればトップの倍満テンパイ。

ラス目が跳満をツモっても3着浮上は無いが、直撃は駄目。

危険牌を押してラス目と勝負するのか?

 

ここでトップを取れば+100ポイント

ラスを引いたら-200ポイントだとして

押す価値は?

 

以前、牌譜検討で記憶に残っているのが「32000点の聴牌だし押しても良かったかな?」という相談に、「振り込んでラスったら-64000点以上の素点が減るようなもの」と指摘されていました。

雀魂の玉の間で、雀聖以上がラスったら-250ptくらい減ります。

役満何回分だって量のポイントが減ります。

 

大げさに言えば段位ポイントで考えた場合に素点なんてゴミみたいなものです。着順のほうが圧倒的に重要なんです。

ラスと三着では一着順の変化で親の五倍役満くらいの差が出るわけです。32000点の素点なんて話になりません。役満でも「一桁たりねーよ」ってレベルです。

 

「3着にはトップ2回分の価値がある」

「親の五倍役満(二十四万点)の放銃を回避した」

このぐらい大げさに考えてもあながち間違いではない。

 

さて、ラスに落ちるかもしれない倍満の聴牌ですか・・・。

押す価値・・・あります?

押したい・・・、まぁ、それも麻雀ですよ。

 

 

根拠のないセオリーとかの話

野球で「2ストライクの後に、一球外して勝負する」というのがセオリーとしてあるのですが、これは統計的には全く根拠がない戦術なのだそうです。

そもそもバッターカウント2-0はピッチャーが圧倒的に有利な状況であり、そこからわざわざ相手に1ボール与えて2-1にする意味はない。というのは数字の上では簡単な理屈です。

しかも実際にカウント2-1にしてから不利な勝負を持ちかけて負けてしまうバッテリーも少なくない。では何故わざわざバッター有利のカウントにしてから勝負するのか。

 

これについて諸説あるものの、「きわどい所に投げて勝負する」「変化球を投げるので外れやすい」など、勝負にはいっているけれどボールになりやすい、というもの。

この他に何とも馬鹿げた理由として、「少年野球時代から2-0で勝負して打たれると”何やってんだ!”と怒られるから投げなくなった」というものが挙げられていました。

2-0でピッチャー有利のカウントから勝負にいって打たれたからダメだという理屈。まぁ昔から「一球見せる(緩急をつける)」とかでひとつ外すのがセオリーになっていますが、数字の上ではまったく効果はない戦術。

 

他にも野球のローカルルールなどに触れる動画をいくつか見ましたが、どれも発生した経緯に根拠はなく、誰かが何となく始めたことが定着しているだけとか、団体や協会で決められているけれどスポーツ的な理由はまったく無いだとか。

どれもそんなものばかり。

で、世の野球少年たちは真面目にこれを守っている人がなんと多いことか驚かされました。要はプロになっても「効果もないことをずっと実行し続けている」のです。

まぁ、もう習慣的なことでしょうから変えるほうが気持ち悪いのかもしれません。

 

それでも野球界にも統計の考え方は広まってきています。それでもまだ「わざわざカウントを不利にして、相手に有利な状況にしてあげる」ということがまかり通っているのです。

バッター目線では「ファーストストライクは振るな(球を見ろ)」といったもの。

麻雀のような押し引きで言えば序盤は見たほうが得かもしれません。相手ピッチャーの球数を増やして疲れも出せるし、球筋を見て回を重ねるごとに打ちやすくなるかもしれない。

 

しかし、だとしても数字の上ではバットを振るほうがヒッティングの確率は上がります。ここには場況も含まれるでしょう。

では代打の一発勝負や、短期決戦でコロコロピッチャーが変わる勝負ではどうでしょうか?

代打では次の打席なんてそもそもありません。出し惜しみの無い大会などでは球筋を見たところで次の打席では別のピッチャーが投げているかもしれない。

 

そんな状況でもまだ「よく見ていけ」なんてやっていたら、見ている間に試合は終わります。

麻雀で言えばドラ1聴牌が入っても「愚形だから良形になるまでリーチは待て」なんて言っているような古い戦術です。

そんなことやっていたら局が終わってしまうのは誰にだってわかります。(もちろん場況は考える前提だが…)

 

将棋や囲碁や麻雀では統計やAIによる損得がハッキリと活かされて、今では古い非実用的な考え方は淘汰されてきています。

でも野球界を見ていると古臭い考え方が未だに蔓延っていて、本当に麻雀で言うなら「昭和のオヤジ打ち」とでもいうようなセオリーが忠実に守られている。

第一線の選手やトレーナはもはや、この限りではないでしょう。しかし少年野球やローカルではまだまだなんだなと思わされます。

 

麻雀でも根拠のないセオリーやオカルトというのは実に心当たりがあります。

でも過去にはそれを真剣に決まりとして守っていた人たちがいたんだなぁ、とあきれ・・・感慨深いものがあります。

でも、まぁ、そんなことやっていたら勝てないよね。というのもハッキリと判ってきました。野球も昭和のオヤジの考え方は捨てましょう。

 

 

 

ラス回避麻雀でトップ取りを狙ってはいけない理由

絶対にトップを狙うなというわけではないですが、「トップ取り」と「ラス回避」ではラス回避麻雀のほうが選べる選択肢が多いです。

 

トップ取りというのはダントツで守る側でもない限りは基本的に「高打点で点数を稼ぎに行く」という追う側の立場になります。

そうなるとリーチをしたり副露をしたり、相手の聴牌に対して押すようにしたりと、攻撃的な選択が多くなります。

つまり「ゼンツになる」ということを意味します。

 

それに引き換え「二着でもいい」「三着でもいい」「他家に任せてもいい」「オリてもいい」「自分が軽くアガってもいい」とラス回避は選択肢が無数にあります。

シチュエーションもそれだけ増えるでしょう。

対してトップ取りは基本的に他家のアガりは自分の和了チャンスを失うことになるので阻むようになります。軽い手でアガれないことも増える。

トップ取りは逆に選択肢が狭まります。

 

典型的なのがアガりの最終形。

「高い手にしないといけない」ので三色確定のカンチャン待ちにしたり、ツモ三暗刻を残してシャボ待ちにしたり、ドラ単騎にしたり・・・。

いずれもリャンメンや三面張など、広くアガりやすい形に受けられるチャンスがあったにも関わらず、それらを放棄してアガりの出にくい高めのほうを選択して、結果アガれれずに振り込みに回ったり・・・。

 

ラス回避が重点のネット麻雀ではこういった行為はタブーとされている。

まぁ、もちろん麻雀の打ち方は自由なので気にすることはないのだが、ラス回避でランクポイントを稼ぎたいのであれば避けるべき行為だということ。

ラス回避麻雀は究極的に言ってしまえば、どれだけ下振れて3着を引いて1着が取れないとしても、4着さえ引かなければポイントがマイナスすることは殆どない。3着の微マイナスは2着のプラスで簡単に打ち消せる。

(雀魂の場合は素点もあるのでこの限りではないが、4着を避けていればポイントを盛れるのは間違いない)

 

加えてラス回避麻雀で一番避けるべきは「放銃」になる。放銃したプレイヤーがラスになると言っても過言ではない。

もちろん平場で高打点の手が入ったのなら勝負すべきだ。その結果、放銃になって4着を引くことになったとしても、麻雀とはそれをやらなければトータルでの勝ちも無くなる。

しかし無意味な放銃は厳禁である。上に挙げたような「トップを狙うために無理に高めを狙って放銃」などは、その最もたる例だ。

 

とはいえ、こういった打牌に覚えがあるのが初中級者であり、エンジョイ勢でもある。

言ってしまえば、放銃を避け、無用な高打点を避け、リーチをせず、聴牌してもオリて・・・。

そういう我慢の麻雀をしても「段位ポイントを盛るのが目的だから関係ない」という鋼の意志を持たなければ続けないだろう。

だからこそ、そこそこのエンジョイ麻雀に興じる層が大半を占めるようになるのだが・・・。

 

半荘単位でのトップ取りが目的ではなく、トータルでの成績で上昇を目指すと見れば、トップを取るかどうかに半荘単位で固執する必要はない。

ただ聖以上になると1~2着も狙う打ち方を心がけないと4着のマイナスを打ち消せずに目減りしていくだけになるのだが。

 

 

そんなの来るわけないやろの話

追い詰められたときには見た目で残り一枚の牌でも希望にすがるしかないものですが、そうでないときは確率に従って枚数で選ぶのも正解。

このあたりも押し引きの一種で、自分の手が安いのに聴牌に真っすぐ向かうか、それとも高めになる三色などの手役や、ドラ赤のくっ付きを残したり。

それとも諦めて安全牌を確保しておくか。

 

ただ手なりで打つ以上にこういった打ち回しも必要になってくる上級卓。

渡辺太プロなどは「手がどうにもならないときは最高めだけ逃さないように打つ」とも語る。

例えば配牌がバラバラのときに三色や一通といった材料がパラパラと見えるのなら、そこを目指して打ちつつ、無理ならばオリ、という選択だ。

 

こういったときに大雑把な打ち手だと「もうオリだから最初から安牌確保でいいや」となることもしばしば・・・。それもそれで正解ではある。

中途半端に打って痛い目を見るくらいなら、しっかりとオリきったほうが正解ともいえる。

実際に太プロのような打ち方はオリに自信がある人間がやる打ち回しだ。読み切れずにオリ打ちしてしまうレベルなら、字牌などの安牌確保をしたほうがいいだろう。

 

ただ、この「高めだけは逃さずに打つ」というのは重要だと思っている。

ここの押し引きが難しいのも事実だが、「いや、こんな牌引くか~~」という良形変化は麻雀あるあるだ。

「こんな牌来るわけないだろ」「そんな都合のいいことあるわけないだろう」と自分で勝手に見限ってしまってチャンスを逃す。

 

鳴きにおいても同じことが言える。「ダブドラの赤5を上家が切るわけがない」とネトマで鳴きOFFにしていたら、不意に上家が赤5を切ってきて「だったらチーするわ!」となったり。

「あり得ないなんてことはあり得ない」のが麻雀なのだ。

「もしかしたら」「かもしれない」、車の教習所で習うような心構えが常に必要なのだ。注意力が求められるゲームである。

 

だからこそ愚形リーチなども「こんなのアガれるわけがない」よりも、「来るか来ないかなんて判らねーんだからリーチ!」が正解となりえるのだ。

もちろん序盤に述べたように、読みから「この待ちは無い可能性が高い」と場況読みを入れらるのであれば打たないリーチも十分にあり得る。

こうなってくると読みのレベルが求められてくるのである。それが押し引きに重要になってくる段階が来る。

 

相手の最終手出しで危険牌の優先度が変化したり、微妙な差、ギリギリを抜ける選択が求められるようになる。

ただ、この「ギリギリを攻める」というのも格好良いように思えて、実際のところ「大雑把にベタオリしていたほうが得」というのもある話だ。

そこの差が読みでついてくるので、まぁこのへんは形の無い戦術なので。押し引きと同じくというかセットというか。初中級者には求められないところでもある。

 

 

格ゲーのモダンの話

格闘ゲームには最近「ボタンひとつで必殺技が出る」というモードがあるんですが、この機能自体はたぶん2000年代の頃から家庭用ゲームにはありました。

ただそれでネット対戦までできるようになったので話題になってきているというか。例えばKOF15だと〇ボタンをポンポンと3回ほど押すだけで連続技になってフィニッシュの必殺技まで出すことができます。コンボをボタンだけで出せるようになっています。

 

これによって何が起きるかというと、対戦を行うにあたって難しいコマンド入力の練習などをしなくてもいいのです。ゲームをダウンロードしてすぐに対戦できるようになる。

しかも全キャラ共通なので、どのキャラを使ってもある程度は戦える。

やり込みや練習が不要となったのです。

 

格闘ゲームの優劣は「難しい局面で複雑なコマンドを正確に入力できるか?」という技術的な側面がありました。そこに駆け引き、押し引きの要素が加わって勝負になる。

大ダメージを狙って難しいコンボを狙うも、コマンドをミスして相手に逆転されてしまう。そういったドラマもありました。

あるいは見事に成功させて拍手喝采。レッツゴージャスティン!とかね。

 

モダンの登場でこういった場面が減少(無くなることはない、後述)したという指摘もある。それは確かにそうだが、それはある一定層以上での会話だというのもその通りで。

そもそもコマンド入力がわからない観客からしてみれば「今の何がすごいの?」としかならない。「なんか逆転して勝ったね、すごいね」くらいの反応にしかならない。

コマンド入力の難しさを知っている者だけが「あの場面で、あんな難しいコンボを正確に決めるなんて・・・なんて凄いプレイヤーなんだ」と感嘆することになる。

 

だが、それはトップ層の数%のプレイヤーに限っての話で、多くのカジュアルなプレイヤーからしてみれば「何がすごいの?」止まりなのだ。

だからこそ、そういった多くのカジュアルプレイヤーに向けて入力が簡略化されたモダンモードが登場する。

言ってしまえばゲーム側のサポート機能によって、誰でもある程度以上は対戦できるようになっていくという仕組みなのだ。

 

コンボの練習 → 駆け引き → 勝敗

という過程を踏まえる必要があった環境から、

(コマンド入力の簡略化) 駆け引き → 勝敗

という段階へとスキップすることが可能になった。

 

ただし、今のところ環境の条件として「モダンモードは独自のコマンド入力にダメージ量で劣る」という部分がある。

しかし麻雀でもメインを「押し引き」と捉える人が多いように、技術力で勝敗が決まるわけではない。状況判断などで差がつくことのほうが勝敗には関わりやすい。

上位層だけが「そのちょっとが勝敗に関わるから手を抜けない」という領域に突入するのだ。

 

・麻雀におけるサポート機能

現在でも麻雀アプリでは「手積みしなくてよい」「自動理牌」「点数計算」などは当たり前になっている。

さらに「リーチ宣言の表示(聴牌が判る)」「フリテンの表示(チョンボできない)」「鳴き牌の表示」「同一牌の点滅表示」「ドラの点滅表示」などなど。

 

アプリによっては河の牌を手出しツモ切りまでわかるようにしていることもある。

これらは格闘ゲームのモダンなどよりも、かなり先立って実装されていた機能である。

しかし、それによって麻雀の対戦の質が低下したということはない。むしろ新しい才能が生まれている。

 

ないおとんであるとか、天鳳位の中にも「特上卓に入るまで字牌ピンフが付く理由がわからなかった」というプレイヤーもいた。

それでもゲームは成立するし、ある程度までの上位には食い込めるのだ。

もちろん、そこから先はひとつ壁があるといっても差し付かえない。

 

雀魂の王座の間などは顕著で、上記のサポート機能がいくつか失われる。

だが天鳳FF14のドマ式麻雀などを打ちなれた者であれば、ドラが光らないとか、待ち牌が表示されないといったことは普通のことだ。リアル卓の手積みなら猶更。

そういった環境で慣らしてけば雀魂でも少し強くなれることは間違いない。

 

主にドラや河を自分でよく記憶するようになるため、見逃しやポカが減る。

雀魂だと「光る前に切っちゃったのでドラだと気付かなかった」なんてことがあるが、それはシステムに頼り切ってしまったがゆえのミスだ。

「リーチ宣言の表示が出たので聴牌したが、待ち牌が河に全部出ていた」など。

 

それらはサポート機能が無いほど自分で把握しようと努めるためミスは減る。

しかし打つのが難しくなるし、負担が増えるのも確かだ。

私も気が付くと残り枚数を表示する機能にはかなり頼ってしまっているため、河の把握がイマイチなことは多い。

 

ただ一般層にはこのくらいのほうが馴染みやすいのは確かだ。

点数計算ができなくても、手出しツモ切りが見れなくても、とりあえずゲームに参加して楽しむことができる。初手でその段階にしてもらえることが大きい。

あとは数をこなせば慣れて覚える部分も増えるだろう。

そしてさらに上を目指すのであれば勉強が必要で、サポート機能に頼っていても仕方がないことが解る。

 

こういった機能があると「ゲームの質が低下する」という人もいるが、現代でそれは否定的だろう。

まず高度な上位数%になるためには多くのカジュアル層が必要なのだ。その中からさらに上を目指すものが出てくるし、そこからはサポート機能に頼りっぱなしでは勝てないと切り替える者もでるだろうし、押し引きだけで上位に食い込んでくるプレイヤーも出てくるかもしれない。

 

友人がKOF15のネット対戦である相手を「たぶん全部簡略化のコマンドしか使ってないんだけど、格闘ゲームのセオリーというか、駆け引きが解っている人ですごい強かった」と語っていた。

細部の難しいことをやっていなくても、大枠さえ合っていれば上手く型にはまるという典型である。逆にどうでもいい細部にこだわって勝率を落とすプレイヤーのほうが多いだろう。

言ってしまえばサポート機能で簡略化されるような部分は、勝負ごとにおいて「ぶっちゃけどうでもいいくらいの要素」で、本来はそれよりも重要なことがあるのだ。

 

麻雀でいえばそれは押し引きになるだろう。

そしてその押し引きをより正確に、高度に行うためには点数計算が必要であったり、手牌や河の把握を自分で即座にできるといった細部が求められるようになってくる。

特にネット麻雀の場合は時間制限があるため、そこを反射的に判断する速さが求められる部分もある。それもひとつアドバンテージになるのだ。

 

ひとつの情報処理が早ければ、他のことに脳を使える。(カジュアル層の場合はこれにサポート機能が役立っているともいえる)

 

 

打牌批判の話をするなよの延長上の話

お前この話、何回こするねん。ってタイトルなんですが。ふと見た格闘ゲーマーの切り抜きが知見に溢れていたので紹介しようかと。

youtu.be

「ムカツクもの(ゲーム)には中毒性がある」

これはわかるw

基本やっぱり思い通りにいくものって一過性の楽しみはあるけど、中毒性とまではいかない。まぁ、そこは使い分けでね。思い通りに行かないゲームで「クソがよ!」ってなったら、確実性の高い娯楽でストレス緩和してっていう・・・。

 

「もう一般に流行るの無理やろって思ってた」

格ゲーも90年代に爆発的に流行ったんですが、まぁ色々あって衰退していった面があります。特に00年代あたりは「家庭ゲーム機でアーケードと同等の質で遊べるようになった」「でもネット対戦は一般的じゃなかった」という剥離した環境から、ゲームをやりたいだけの人は家で遊ぶし、対戦したい人はゲーセンに行っていたという人口の分離が起きてしまった面があります。

現代でよく言う「課金ゲーでも課金しない人口層も大事」というやつで、ゲーセンにあれだけ溢れていた人が減ると「ブーム終わったな」ってなっちゃうんですよ。で、次第に全体的に熱が冷めていく。

色々なものに再ブームというのはありますが、どこで火が付くかは判らないものです。麻雀も皮肉にもコロナ禍で流行るという現象がありました。外に出ることができずに室内娯楽としてネット麻雀の雀魂などのプレイヤー数が増加。

そして巷ではMリーグが開催されていて観戦者や人口の増加に拍車がかかった。

 

VALORANT(ヴァロラント:FPSのサーチ&デストロイに特化したゲーム)の大会に観戦に行ったら、スキルぶっぱで連続3キルくらいして”いや、どう見てもタイミングの運が良かったな”って思ったら、後ろの女の子たちが”きゃ~!すご~い!うま~い!”って言っててw ”いや、上手いは違うw”って思ったけど! 」

「何が言いたいかというと、内容わからないのに観戦に来てるくらい流行ってる凄くない?」

「でね、そういうこと言ってるところに水差したらアカンw そこは我慢やでw」

このあたりが打牌批判とか麻雀詳しいおじさん達に刺さってほしいところかなとw

おもんないんすよw そんなとこでマジレスされてもw

まぁ、とはいえね。自分もツッコミたいほうですよw

だからね、それは自分用のコミュニティを持てよ、って話で。これは前回も記事にした通り。

 

「”初心者は喋るなってこと?(コメント)”」

「いや喋っていいよw ホント好きに喋っていい。だってそっちのがアドバンテージあるもん」

「ヴァロの大会の観戦の空気って自由だったんですよ。で、それがないとやっぱり窮屈になっちゃうんですよね」

「だってそうじゃないと内容知ってるとか詳しい人じゃないと発言しちゃダメ、みたいな空気になっちゃうじゃないですか」

これはマジで衰退の理由の一環ではあると思う。

新規勢が取っつきにくいというかね。

昔は自分もゲーセンに入り浸っていた勢ではあるんですが。全然ゲーセン知らない新規の子を連れて行ったことがあったんですよ。紹介も兼ねて。そうしたらその子の感想が「仲間内の空気感が出来過ぎていて(店に)入りづらい」と。

もう常連が多いゲーセンだと顔見知りばっかりなんですよね。店員さんも含めて。

そうなると知らずのうちに一見さんお断りみたいな雰囲気を醸し出してたのかなと。そしたら新規は伸びないよね。

 

天開司が「流行らせよう」ってコンセプトで「打牌批判禁止」にしたのだったら正解だと思う。まぁ、そっちに傾き過ぎても「自由」ではないんだけど。

 

「”ヤジも盛り上がり?”(コメント)」

「それはあるけど、やっぱり基本、選手を貶めるようなことは言っちゃいけない」

「(観戦者に見当違いな発言があったとして)まぁ知り合いだったらなんか言うけど、見ず知らずの人にそこまでは言わない」

 

パーティーゲームと競技の狭間で

格闘ゲームもeスポーツとして盛り上がる反面、競技か単なる娯楽かで判断が難しいところもある。

厳格すぎればプレイヤー数の裾野は広がらないし、ひいては観戦者やファンの数も増えない。

かといってカジュアルすぎればプロ化することが必要なレベルなのか疑問視されてしまう。

 

麻雀はパーティーゲーム - iohkita’s diary

麻雀を実力ゲーだと思っている人が陥る罠 - iohkita’s diary

 

今回の内容も踏まえてね、このあたりの記事も載せておきます。

 

麻雀に選択肢が無い話の選択肢の違いの話

ややこしいタイトルですが。

A:「麻雀は選択肢が少ないゲームだ」と言うこともあれば、

B:「麻雀は選択に気づけるかのゲームだ」と言うこともある当ブログ。

 

ここで言っている「選択肢」はそれぞれ別のことなのだということをABそれぞれ解説しておこうかなと。

 

A:未来の選択肢はない

どのゲームでも「開拓者」っているんですよね。「今まで誰もやってないけど、こんなことできるんじゃないか?」とか、「こういうプレイスタイルの人って見ないけど実は有効なんじゃない?」とか試したがる人。

こういう人は新規性に着目することを楽しんでいたりして、逆に「人と同じことをやるのはつまらない」とか「すでにできてる攻略をなぞるだけじゃ面白くない」という感覚を持っていることが多いです。

ゲームのプレイスタイルとしては理解できますね。

 

でも日本式のリーチ麻雀にはもうそんなに大きく戦略が変わるほどの要素って残ってないんですね。

「リーチに対して3枚までは無筋を切っても大丈夫」なんてこともないし、「リャンシャンテンでも親の2副露に危険牌を切っても勝てる」というのもあまりないでしょう。

でも新規開拓をしたがる人達というのは、ここに突撃します。

 

すでに統計で「そんなことやっても無駄が多いだけ」と知れている戦略でも「あえて」逆らって体感することで学んだりします。これはもうそういうタイプの習性なので仕方がないです。

それでボコボコにやられた後に「やっぱ駄目だな!」と素直に定石に従えるようになれる人は強いです。

あとは万に一つもやはりそういったチャレンジで歴史が変わるような発見があることも事実です。発展途上のRTAなんかではそういった発見の面白みがありますね。

 

ただRTAにしても煮詰まるとやっぱりそういうのはなかなか出てこないです。

10年くらい環境が変わらずにいることもありますし、逆に定石に従って黙々と走っている人がたまたま偶然に新しい要素を発見することもあります。

やはり煮詰まったゲームの新規性っていうのは超レアなんですね。それを昨日今日始めた新人が「オレ何かやっちゃいました?」みたいな発見の仕方をすることはまずないと言えるでしょう。(10年以上やってる人でも見つけられないものをそんな簡単に…ね)

 

この観点で現代麻雀の研究している人がやっていることというのは、もう超微差の話で。定石を習っている新人が気にするレベルではないです。

だから麻雀講座の人達も「そんな細かいことよりも、中級のセオリーを守ったほうがトータルの勝率は上昇する」と指摘するわけです。

 

B:ゲーム中の選択肢は無数にある

まぁ、無数にあるって言っても結局選択肢の大半はオリ、防御側の牌選択にしかならないんですが・・・。

こっちの選択肢はAと違ってメチャクチャあります。これこそが麻雀の醍醐味ともいえるでしょう。

何を切るか、押すか引くか、手役を狙うのか、ドラの受け入れを見るのか...etc。麻雀は本来これらの選択を楽しむものだと思います。

 

Aを楽しみたい、というのは将棋や囲碁もそうですが「まずは既存の定石を全部踏まえたうえで言ってくれ」というものです。

それも抑えていないのに「オレが新しい歴史つくっちゃうよ?」なんてのはただのバカです。

無理とは言いませんし、その挑戦心はいいですが、それが1~2日のポッと出ただけの人間には無理だということは言うまでもありません。

 

いわゆる現代のビデオゲームであれば、そういった新規性というのは見出しやすいです。ゲームそのものの歴史がまだ浅いぶん、開拓されている要素も少ないということですね。

でも麻雀はもう歴史が長いです。アプデでその日のうちに環境が変わるわけでもありません。

現代麻雀の礎になっている統計も「せや、正確に統計取ったらええんちゃうか?」と思いついて、翌日に「できたで~」となったわけではありません。

その思い付きが生まれてから実行し、データを積み重ねて、解析して・・・。と膨大な手間の末にようやくひとつの結論が生まれているわけです。

 

・・・なんかBの項目なのに、またAの話してるな・・・。

 

まぁ、このへんBにもAが関係してくるのですが、ゲーム中の選択肢というのはAによって新たな部分が切り開かれて日々変化しているわけです。これは将棋や囲碁やチェスでも同じでしょう。

AIなど人間の脳よりも計算速度の速いCPUを用いることで微差を詰めてわずかな有利を見出していきます。

もはやそれを「人間が信じられるかどうか」という領域になっています。

 

麻雀ではそれが顕著です。統計でこっちが有利!と言われても、見た目は別のほうが有利じゃない?と逆らいたくなってしまうものです。

麻雀だから、というわけではなく将棋でもAIの一手を疑問に思って従えないプロは多くいます。特に過渡期だからそういった現象があるのでしょう。

新人の藤井竜王名人なんかはそういった面でAI検討に対して素直なのかもしれません。

 

うー~ん、将棋と麻雀でAI検討を比較するなら、麻雀はAIに従ったとしても結果が運次第なので「やっぱダメじゃん!AIの嘘つき!」「トータルでも微マイナスにしかならなかった!」ということがあり得るのが難しいところです。

だからこそ余計に「AIに従っても勝てない」「人読みにこだわったほうが勝てる」といった方向に行く人が出てきてもおかしくはないでしょう。

人間側が何らかの根拠があってAIを疑うのはよいですがね。